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あなたの恋人、私の婚約者と駆け落ちしました  作者: 九葉(くずは)


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第5話

 丸二日、乗合馬車に揺られ続けて、ようやく地面に降り立った。真っ先に鼻をくすぐったのは、故郷の草いきれとはまるで違う、塩気を含んだ風だった。

 ポート・ヘイヴンは、すり鉢のような地形に白い石造りの家が段々に並ぶ港町だ。湾には帆柱が林のように立ち、海鳥の声がひっきりなしに聞こえる。

 滞在先は、波止場から急な石畳の坂を上りきった高台にあった。


 母の姉にあたるソフィア伯母様は、五十を少し過ぎた、背筋のしゃんとした小柄な人だった。商人だった夫に先立たれてから、海を見下ろすこの白壁の平屋で、通いの女中を一人だけ置いて暮らしている。


「よく来たわね、ロザリー。疲れたでしょう」


 事情は父の手紙で伝わっているはずだった。けれど伯母様は、婚約のことを一言も訊かなかった。温かい魚のスープと焼きたての麦パンを出して、「ここでは誰の顔色も窺わなくていいのよ」とだけ言った。

 港町での暮らしは、拍子抜けするほど静かで、自由だった。

 手伝いといっても、庭の草引きや書棚の整理くらいのものだ。一日の大半は、私の好きに使ってよかった。



 着いて四日目の午後、私は坂の途中にある小さな仕立て屋を訪ねた。

 これまでの私は、「男爵令嬢は目立たず地味なのがいちばんだ」というヒュー様の言葉に従って、濃紺や灰色の、かっちりしたドレスばかり選んできた。色とりどりの布が積まれた作業台の前で、私は店主に言った。


「この、淡い浅葱色の木綿をいただけますか。風が通るように、袖口の広い形で仕立てていただきたいの」


 海の色を薄めたような、明るい青。誰に勧められたのでもない。私が着たいと思った色だった。

 翌朝は一人で坂を下り、朝市を歩いた。威勢のいい魚屋の女将さんから、鱗の青く光る小魚を二匹買い、ついでに焼き方を教わった。


「お嬢さん、見ない顔だね。どこの家の子だい」

「坂の上の、ソフィアの姪ですの」

「ああ、ソフィアさんとこの! じゃあ、おまけだ」


 小魚が一匹増えた。

 リンデル家の長女でもなく、クラーク家に嫁ぐ娘でもなく、ソフィア伯母様の姪。たったそれだけで魚が一匹増えたことが、なぜだかとても嬉しかった。



 着いて十日ほど経った朝、郵便配達人の鳴らす鐘が坂道に響いた。

 受け取った封筒には、少し角張った字で私の名前が書かれていた。オークフィールドの消印。ジョナス様からの最初の手紙だった。

 自分の部屋の机に向かい、ペーパーナイフで丁寧に封を切る。二つ折りの便箋と一緒に、小さく畳んだ画用紙がこぼれ落ちた。


 広げると、緑色のクレヨンで勢いよく描かれた川原と、少し傾いた、けれど力強い水車があった。隅に、たどたどしい字が並んでいる。


『ロザリーさんへ。お兄ちゃんが川までついてきて、石を投げるなとか服をよごすなとかうるさかったけど、水車はじょうずにかけました。リリー』


 吹き出しそうになった。先に謝ると言っていたのに、結局ついていったらしい。私は机の端の真鍮のインク壺に、その絵を立てかけた。

 便箋を広げる。飾り気のない文面から、ジョナス様の声がそのまま聞こえてくるようだった。


『港町の風はいかがですか。海の匂いにはもう慣れましたか。


 こちらは相変わらず、のんびりした初夏です。役場の裏の樽のところを通るたび、少し静かすぎる気がします。


 約束どおり、くだらない失敗談を一つ。先日、酒場で大工の棟梁と出くわして、なぜか若い連中と腕相撲をすることになりました。格好をつけて挑んだら一人目にあっさり負けて、二日間右腕が上がりませんでした。マルタには臭い湿布を貼られながら散々説教され、リリーには丸一日口をきいてもらえませんでした。見栄は張るものじゃありませんね。


 王都の二人からは、あれきり何の音沙汰もありません。宿はとうに追い出されたでしょう。

 追伸。秋に一度、そちらへ伺いたいと思っています。リリーを預ける段取りがついたら、ですが。ご迷惑でなければ、町を案内してください』



 湿布だらけで説教される姿を思い浮かべて、私は声を立てて笑ってしまった。

 以前の私なら、こんな手紙をもらっても、どう返せばいいか分からなかっただろう。弱みや恥を人に見せるのが、何より怖かったから。けれど今は、その格好悪さがいちばん嬉しかった。

 引き出しから便箋を出して、ペンをインクに浸した。


 浅葱色の服を仕立てたこと。市場で魚を買って、伯母様と香草で煮込んだこと。小魚が一匹おまけになったこと。リリーさんの絵を机に飾ったこと。それから、腕相撲で負けた人を少しだけからかった。

 書き終えて読み返したところで、手が止まった。


(少し、馴れ馴れしすぎるかしら)


 私たちは、恋人でも何でもない。逃げた二人の後始末を一緒にしただけの間柄だ。

 追伸のところを、もう一度読んだ。それから、最後の一行を書き足した。


『秋の魚は、今よりずっと脂がのって美味しいそうです。並んで海を見られる日を楽しみにしています』


 封蝋を押して、窓を開けた。潮風が入ってきて、インク壺に立てかけた水車の絵を揺らした。


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