第4話
正午の鐘が、大理石の床に冷たく響いていた。
『オテル・ド・ロワイヤル』のフロントで、支配人は笑みを消し、ヒュー・クラークの顔を正面から見据えた。
「クラーク様。お約束の正午を過ぎました。昨晩までのお部屋代とご飲食代、締めて四万八千セル、お支払いいただけますか」
「だから言っているだろう、為替は今日の夕方に届くんだ!」
ヒューはカウンターに両手をついた。
「僕はクラーク男爵家の跡取りだぞ。この僕が嘘をついているとでも言うのか!」
「お客様。王都の宿では、お支払いのない家名より、銀貨を払う平民のほうが歓迎されます」
支配人は眉ひとつ動かさなかった。
「この場でお支払いいただけない場合は、衛兵を呼び、お手荷物をすべて差し押さえます。当館にはその権利がございます」
ロビーにいた客たちが、好奇と軽蔑の入り混じった目を向けてくる。ヒューは言葉に詰まった。田舎の男爵家の名前など、王都の真ん中では紙切れほどの重さもない。それを、生まれて初めて肌で知った。
部屋に戻ると、ヒューは旅行鞄の底から小さなビロードの箱を取り出した。
中身は金の懐中時計だ。二十歳の成人の日に、父から贈られた。蓋にはクラーク家の紋章が彫り込まれている。一人前の男として恥じない生き方をしろ。口数の少ない父が、そう言って手渡してくれた品だった。
裏通りの薄暗い古物商へ駆け込み、ヒューは箱をカウンターに置いた。
「これを売りたい。金無垢の上物だ」
眼鏡の店主は、埃っぽい指で時計をつまみ上げ、拡大鏡で覗いた。
「細工代はつかないね。金の目方だけだ。四万九千セル」
「馬鹿な! 父が王都の老舗に誂えさせた品だぞ、三倍は下らない!」
「よその家の紋章入りの時計なんて、誰が買うんだい。買い手がつかなきゃ、ただの金だよ。売らないなら持って帰りな」
店主が時計を押し返そうとした。
ヒューの手が伸び、鎖に触れた。指が金属に貼りついたように動かない。これを手放せば、父とのつながりは何も残らない。けれど宿へ戻れば、衛兵が待っている。
ヒューは指を引いた。
「……売る。金を出せ」
受け取った紙幣と銀貨を握りしめて宿へ走り、支配人の前に叩きつけた。精算を済ませると、手元には銀貨が四枚残っただけだった。
「確かに頂戴いたしました。なお、規定により、明朝十時までにお部屋を明け渡していただきます」
「来週まで押さえておけと言ったはずだ」
「お支払いを拝見してから承ると申し上げました。拝見いたしましたので、お断りいたします」
部屋に戻ると、イザベラが不安そうに駆け寄ってきた。
「ヒュー様、どうなったの? あの時計、お父様からいただいた大切なものじゃなかったの?」
「あんなもの、趣味の悪い安物だよ。処分しただけさ」
ヒューは上着を脱ぎ捨て、口の端だけで笑ってみせた。
「王都にはもっと洒落た時計がいくらでもある。新しい宿に移ったら、買い直せばいい」
夕暮れ時、ボーイが一通の書状を届けに来た。
「クラーク様。故郷からの早馬便でございます」
「ほら見ろ! 為替だ!」
ヒューは封を破り、中の紙を引き出した。滑り出てきたのは為替ではなかった。一枚の便箋に、たった数行の文。その下に、見覚えのある二人の署名が並んでいた。
『送金も、親への取りなしも一切行わない。婚約および交際は終了した。用があるなら自分の足で帰り、両親に直接頭を下げること。ロザリー・リンデル、ジョナス・ベルン』
「……なんだ、これは」
指から力が抜け、便箋が絨毯に落ちた。
「金も、取りなしも……来ない……?」
イザベラが悲鳴を上げて便箋を拾い上げた。読み進めるうちに、彼女の顔から血の気が引いていく。ヒューの顔は逆に、赤黒く染まった。
「あの恩知らずな女め! 僕を見捨てる気か! 僕がどんな思いでここまで来たと思っているんだ!」
ヒューは床を踏み鳴らして怒鳴り散らした。手元の銀貨四枚と、明朝十時の退去。そのどちらからも目を逸らすように。
翌朝十時、二人の旅行鞄は、宿の従業員の手で正面玄関の石段の下へ運び出された。
イザベラの帽子箱が最後の一段で傾き、蓋が外れた。羽根飾りのついた帽子が転がり出て、朝の通りに落ちた。通りがかった花売りの娘が、くすりと笑って行き過ぎた。
イザベラが慌てて拾い上げる。その背後で、真鍮の扉が音もなく閉まった。
辻馬車を呼ぼうと、ヒューは手を上げた。止まった御者が告げた運賃を聞いて、その手を下ろした。
二人はそれぞれ鞄を提げ、宿の並ぶ目抜き通りから、南の路地のほうへ歩き出した。重い鞄を自分で持つのは、二人とも初めてだった。
◇ ◇ ◇
二週間後の朝、オークフィールドの乗合馬車の停留所には、初夏の青空が広がっていた。
足元には、一年分の荷物を詰めた革のトランクが二つ。今日、私は港町ポート・ヘイヴンへ発つ。
「ロザリーさん」
並木道の向こうから、ジョナス様が歩いてきた。隣には、水色のワンピースを着てスケッチ帳を抱えたリリーさんの姿もある。
「見送りに来てくれたの? ありがとう、リリーさん」
屈んで声をかけると、リリーさんは少し目を泳がせ、口を尖らせた。
「お兄ちゃんが、一人で見送りに行くのは格好がつかないって言うから、ついてきてあげただけ。わたし、午後からミナちゃんと水車小屋の仕上げをしなきゃいけないんだから」
「まあ。絵の邪魔をしてしまったかしら」
「……ううん。水車、上手に描けたら、手紙に入れてあげる」
ぽつりと言われて、私は思わずリリーさんの顔を見た。それから、笑ってしまった。
「楽しみに待っているわ。約束よ」
リリーさんは小さく頷き、停留所のベンチに腰を下ろしてスケッチ帳を開いた。
ジョナス様が苦笑しながら、私の前に立った。
「すっかり手紙を出す気でいますよ、あいつ」
「嬉しいですわ。ジョナス様も、約束どおりくだらないお話をたくさん書いてくださいね」
「ええ。町の噂から、リリーが人参を残した話まで、全部書いて送りつけます」
「書いたら怒るからね」
ベンチから声が飛んできて、私たちは顔を見合わせた。
それきり、言葉が途切れた。
町に残れば、傷を舐め合うことはできたかもしれない。けれど、残ればいいとは誰も言わなかった。ジョナス様も、一度も言わなかった。
「ポート・ヘイヴン行き、間もなく出ます!」
御者の太い声が響き、トランクが屋根へ引き上げられていく。
私はステップに片足をかけて、振り返った。
ジョナス様は何か言いかけて、喉を一度上下させた。
「……ロザリーさん」
「はい」
「気をつけて。待っていますから」
言い終えた彼の耳の端が、赤くなっていた。
「ええ。行ってまいります、ジョナス様」
馬車が軋みながら動き出した。
窓から身を乗り出して手を振ると、ジョナス様は思わずというふうに、車輪に合わせて数歩だけ駆け出した。そこで立ち止まって、高く手を振った。リリーさんがベンチから立ち上がって、兄の袖を引っぱっているのが見えた。
二人の姿が小さくなっていく。私は座り直して、前を向いた。
膝の上の鞄には、伯母様の家の住所を書いた紙が入っている。同じものを、ジョナス様にも渡してあった。最初の手紙には、この窓から見えたものを書こうと思った。




