第3話
「朝から何も食べていないでしょう。うちで昼食にしませんか。すぐ近くです」
役場の石段でジョナス様にそう言われ、私は断ろうとした。口を開くより先に、お腹が鳴った。
父が咳払いをした。聞かなかったことにするには、いささか大きすぎる咳だった。
「では、私は先に帰る。ベルン殿、娘をよろしく頼む」
父の馬車が角を曲がるまで、私はジョナス様の顔を見られなかった。
ベルン家の別邸は、役場から歩いて十五分ほどの町外れにあった。
家督を継いだ兄君は王都に住み、この別邸をジョナス様と妹さんに譲ったのだという。
木の門をくぐると、焼きたてのパンの匂いがした。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん。あら、お客様ですか」
麻のエプロンをかけた小柄な年配の女性が出迎えてくれた。通いの家政婦のマルタさんだ。この家のことはすべて彼女が切り盛りしていると、道すがら聞いていた。
「リンデル男爵家のロザリーさんだ。昼食をご一緒することにした。俺のパンを半分、ロザリーさんに回してくれるか」
「はいはい、すぐにご用意しますね」
マルタさんは余計なことを訊かず、私を居間へ通してくれた。
居間の長椅子には、繕った跡がいくつもあった。ジョナス様はさりげなくクッションを裏返し、ほつれていない面を私のほうへ向けた。
マルタさんが運んできたパンは、半分どころか皿いっぱいだった。
「お嬢様も、たんと召し上がってくださいね。坊ちゃんは朝も食べずに飛び出していったんですから、半分になんてしたら倒れてしまいます」
「余計なことは言わなくていい」
私がうつむいて笑いをこらえると、ジョナス様も困ったように笑った。
廊下から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「お兄ちゃん、帰ってたの!」
勢いよく扉が開いた。
入ってきたのは、膝に少し土をつけた、淡い栗色の髪の女の子だった。ジョナス様の妹で、十歳になるリリーさんだ。胸に革表紙のスケッチ帳を抱えている。
私と目が合うと、リリーさんはぴたりと足を止め、警戒するように目を細めた。
「……お客様?」
「ああ。ご挨拶しなさい、リリー。リンデル男爵家のロザリーさんだ」
「……こんにちは」
ぺこりと頭を下げたものの、それ以上愛想を振りまく気はないらしい。彼女の目は、私の座っている椅子に向いていた。いつもは彼女の席なのかもしれない。
「こんにちは、リリーさん。突然お邪魔してごめんなさいね」
私が会釈すると、リリーさんは兄のほうへ向き直った。
「お兄ちゃん、わたし、これから裏の小川に行ってくる。薬草屋のミナちゃんと、水車小屋の絵を描く約束してるの」
「川原か? 足元が濡れていて危ないだろう。裏庭にしておきなさい」
ジョナス様が眉を寄せて、すかさず口を挟んだ。
「裏庭に水車小屋なんてないもん。約束したんだから!」
「あそこは草が深くて虫も多い。それに、ミナちゃんの兄貴は乱暴だから、何かあったら困るだろう。俺が一緒に行くか、でなければ明日に……」
「もう! お兄ちゃん、うるさい!」
リリーさんは床を踏み鳴らした。
「子ども扱いしないで! ミナちゃんのお兄ちゃんなんて来ないし、浅いところで描くだけだもん。マルタさんにもちゃんと言ってある! 行ってきます!」
ジョナス様が手を伸ばすより早く、リリーさんは身を翻して駆けていった。玄関の扉がばたんと閉まる。
居間に、気まずい沈黙が落ちた。
ジョナス様は伸ばした手の行き場をなくし、やがてがっくりと肩を落とした。
「……面目ない。みっともないところをお見せしました」
「いいえ。ずいぶん熱心なお父様ぶりでしたわね」
からかうと、彼は両手で顔を覆った。
「やめてください、まだ二十四です。分かってはいるんですよ。あいつが自分で友だちと約束をして、自分の足で出かけたい年頃なのは。でも、両親が死んでから、俺が目を離したらあいつまでいなくなるんじゃないかって、妙なところで過保護になる」
指の隙間から、情けない溜め息がこぼれた。
「結局、あいつの邪魔をして煙たがられているだけです。格好悪いでしょう」
「格好悪くなんてありませんわ」
マルタさんが淹れてくれた紅茶の湯気を見ながら、私は自然と口を開いていた。
「誰かのためを思って空回りするみっともなさなら、私のほうがずっとひどいですもの」
「ロザリーさんが?」
「ええ」
誰にも話したことのない記憶が、舌の上に苦く上がってきた。
「一年前、ヒュー様がご友人と賭け弓をして、一月分のお小遣いをすっかりなくしたことがありましたの。あの方は真っ青になって、私の前で頭を抱えていました。親に知られたら勘当される、と」
「まさか、あなたが肩代わりしたんですか」
「ええ。母の形見の小箱に貯めていた、自分の持参金の足しにするはずのお金から、黙って埋め合わせました。『何もなかったことにしておきましたわ』と笑って、感謝されて。……その時の私、なんてよくできた婚約者だろうと、心の中で得意になっていたんです」
喉の奥が詰まった。
「お礼を言われるのが嬉しかったんです。困るたびに私のところへ来てくれるなら、ほかの人のところへは行かない気がして。そんなことをしていたから、あの方は」
そこまで言って、私はカップを握りしめた。取り繕うのはやめると決めたはずなのに、自分の浅ましさを人前にさらすのは、やはりひどく恥ずかしかった。
「賭けたのも、逃げたのも、あいつです」
ジョナス様がカップを置いた。
「あなたが払ってやったこととは、別の話です。そこまで背負わなくていい」
私はカップを持ち上げかけて、また戻した。泣きたくなるとは思っていなかった。
「……ご自分のことも、そう思えますか」
「今は、半分くらいは」
彼は窓の外へ目をやった。水車小屋へ続く道は、ここからは見えない。
「リリーには、帰ってきたら先に謝ります。約束の話を聞きもしないで、駄目だと言った」
「絵も見せてもらえるといいですね」
「怒っていなければ、ですけど」
その返事に、私は少しだけ笑った。
紅茶を飲み終えて、私は立ち上がった。
「ごちそうさまでした。マルタさんにも、よろしくお伝えください」
「門まで送ります」
二人で並んで、庭の飛び石を歩いた。晩春の日差しが若葉を透かして、足元にまだらな影を落としている。
出発まで、あと二週間あまり。この庭に来ることは、もうないのかもしれない。
門扉に手をかけたところで、ジョナス様が足を止めた。
「ロザリーさん」
「はい?」
振り返ると、彼は少し目を泳がせてから、私を見た。
「港町へ行っても、手紙を書いていいですか」
風が吹いて、彼の淡い茶色の髪を揺らした。
「あいつらの後始末の報告だけじゃなくて、その……リリーと喧嘩したとか、町でいい木材を見つけたとか、そういうくだらない話ばかりになると思いますけど」
早く返事をしなければと思うほど、言葉が出てこなかった。門の取っ手から手が離れて、開きかけていた門がこつんと閉まった。
「……ええ」
口角が上がった。今度は、作った笑いではなかった。
「退屈な手紙でしたら、赤字を入れて送り返しますわよ、ジョナス様」
「手厳しいな。腕を磨いておきます」
門を出て、角のところで振り返った。彼はまだ門の前に立っていた。私が手を上げると、彼も慌てたように手を上げた。




