第2話
十時の鐘が鳴り終わると同時に、町役場二階の貸し応接室の扉が閉じられた。
長テーブルを挟んで、五人が向かい合う。私の隣には父のリンデル男爵、その向かいにヒュー様の父のクラーク男爵、少し離れた席に地主のハワード氏。テーブルの端には、この場を整えたジョナス様が座っている。
昨晩、私が事の次第を打ち明けた時、父は額を押さえてしばらく黙り込んだ。それから一言だけ、「なぜもっと早く言わなかった」と言った。予想していたとおりの言葉だったのに、私は何も返せなかった。今朝の父は、男爵の顔で口元を固く結んでいる。
「さて、ベルン殿」
口火を切ったのはクラーク男爵だった。眉間に深い皺を刻んだ初老の男爵は、日頃から息子の素行に手を焼いていたせいか、声にはもう諦めが混じっていた。
「急な呼び出しと聞いて参ったが、うちの愚息とハワード氏の娘が姿を消した件で、何か分かったのかね」
「はい」
ジョナス様は前置きを挟まず、上着の内ポケットから二通の手紙を取り出した。
「昨日の朝の定期便で、王都から届きました。ヒュー殿からロザリーさんへ、イザベラ嬢から私へ宛てたものです」
テーブルの中央に薄紅色の封筒が置かれると、ハワード氏が身を乗り出した。丸い頬を紅潮させ、娘を溺愛している地主は、すがるような声を出した。
「王都……? そんなはずはない、イザベラは友人の領地へ遊びに行くと……ベルン殿、まさか誰かに拐かされたのでは」
「中をお確かめください、ハワード殿」
ジョナス様が淡々と便箋を滑らせる。
封筒の裏に箔押しされた宿の名。王都の目抜き通りに建つ名門宿『オテル・ド・ロワイヤル』の文字を見た途端、三人の大人の顔色が変わった。駆け落ちの身で、王都一の宿に泊まっている。それだけで、二人がどんなつもりでいるのかは十分に分かった。
「馬鹿な……あの子が、そんな恥知らずな真似を……」
ハワード氏が便箋を取り落とす。その横で、息子の手紙を読み終えたクラーク男爵の手が、紙を握り潰さんばかりに震えていた。
「身勝手にもほどがある。よりによって、ロザリー嬢に金を工面させ、親への取りなしまで頼むだと? どこまで家名に泥を塗れば気が済むのだ、あの恥知らずは」
男爵はこちらへ向き直り、深く頭を下げた。
「ロザリー嬢、リンデル卿。息子の非道、家長として心よりお詫びする。ヒューは必ず連れ戻して、厳しく躾け直す。だから、どうか寛大な……」
「いいえ、クラーク男爵閣下」
父が口を開くより先に、私は遮っていた。声が上ずりそうになり、膝の上で両手を固く組む。
「躾け直していただく必要はございません」
「ロザリー嬢……」
「ヒュー様は手紙の中で、私といると息が詰まる、私の完璧さは刃のようだとお書きになりました。そう書いた手で、別の女性と王都一の宿に泊まり、その宿代を私に払わせようとなさる。そういう方を、私は生涯の伴侶として敬うことはできません」
男爵の痛ましげな目を、私は逸らさずに受け止めた。
「本日この場をもって、ヒュー・クラーク様との婚約を白紙に戻させていただきます。私は来月、予定どおりポート・ヘイヴンの伯母のもとへ参ります。あの方の後始末に、私の一年を使うつもりはございません」
隣で、父が長く息を吐いた。
「クラーク卿。娘の申し出を受けていただきたい。リンデル家としても、この婚約を続けることは認められん」
クラーク男爵は両手で顔を覆い、やがて小さく頷いた。
「承知した。すべてはこちらの監督不行き届きだ。婚約の折にお預かりしたものは、倍にしてお返しする」
「それからハワード殿」ジョナス様が、呆然としている地主に目を向けた。「私とイザベラ嬢の交際も、これで終わりです。あの二人が王都で何をしようと、私とロザリーさんは一文も送りませんし、実家への仲介もいたしません。二人の処遇は、親御さん方で直接お決めください」
応接室を出ると、私とジョナス様は一階の郵便窓口へ向かった。
受付の台の上で、一枚の便箋に短く書き、二人で署名した。
『送金も、親への取りなしも一切行わない。婚約および交際は終了した。用があるなら自分の足で帰り、両親に直接頭を下げること。ロザリー・リンデル、ジョナス・ベルン』
宛先は、あの宿にした。王都行きの早馬便の料金を払うと、局員が受付の印を押した。
「向こうに届くのは、明日の夕方ですね」
「ええ。首を長くして返事を待っている方たちですもの。早く届けて差し上げないと」
ジョナス様が小さく吹き出した。局員が怪訝そうに顔を上げたので、私たちは揃って咳払いをした。
◇ ◇ ◇
王都の晩春の日差しが、『オテル・ド・ロワイヤル』のテラスを明るく照らしていた。
ヒュー・クラークは銀のポットから注がせたショコラを一口含み、肘掛け椅子に深々と体を預けた。眼下の通りを、着飾った紳士淑女が行き交っている。埃っぽい田舎町とは、空気からして違った。
「ヒュー様、この果実のタルト、とても美味しいですわ」
イザベラが、新しいレースの手袋をはめた指でフォークをもてあそんだ。昨日、王都の洋品店でヒューがつけで買わせたものだ。
「気に入ったなら何よりだ。君にはこういう場所がふさわしい」
ヒューは満足げに笑った。
手紙を出して三日。そろそろオークフィールドから返事と為替が届く頃だった。
(ロザリーは僕を失うのが怖いんだ。少し痛い目を見せておけば、戻ってからも僕の言いなりになる)
扉が控えめに叩かれ、黒い燕尾服の支配人が入ってきた。銀の盆に、一枚の請求書が載っている。
「クラーク様。ご滞在の延長についてでございますが」
声はどこまでも丁寧だったが、目は笑っていなかった。
「当館では、ご滞在費の精算を三日ごとに頂戴しております。明日、土曜日の正午までに、これまでのお部屋代とご飲食代をお支払いいただけない場合、以後のご滞在はご遠慮いただくことになります」
ヒューの眉がぴくりと跳ねた。財布の中身では、この続き部屋の二晩分にも足りない。
けれど、イザベラが大きな目でこちらを見ている。うろたえた顔など見せられなかった。ヒューは胸を張った。
「心得ているよ。故郷の代理人から為替が届く手はずになっている。明日の夕方には手元に入るから、数時間くらい待てるだろう。なんなら、来週いっぱいこの部屋を押さえておいてくれ」
「正午の期限は変えられません、クラーク様。来週のご予約は、お支払いを拝見してから承ります」
支配人は一礼して下がった。
ヒューは鼻で笑った。去年、父と泊まった宿では、父が一言かけただけで支払いを一日待ってもらえた。同じ家名を持つ自分にだけ、融通が利かないはずがない。
扉が閉まると、イザベラが甘えるように腕を絡めてきた。
「素敵ですわ、ヒュー様。私、あんな退屈な町には、もう二度と戻りたくありませんの」
「心配いらないよ。僕たちには僕たちの生き方がある」
イザベラの髪を撫でながら、ヒューは財布に触れなかった。触れれば、軽いと分かってしまうからだ。




