第1話
「それで、ロザリーさん。そちらにも、王都から手紙が届きましたか」
町役場の裏手、積み上げられた雨水樽の陰で、ジョナス・ベルン様がそう声をかけてきた。
六日前の朝、私の婚約者であるヒュー・クラーク様と、近隣の地主の娘であるイザベラ・ハワードさんが、揃って町から姿を消した。この小さな町で二人が同時にいなくなれば、何が起きたのかは誰にでも察しがつく。町じゅうがその噂で持ちきりになっていた今朝、定期便で、王都の同じ宿の封筒に入った手紙が、私とジョナス様のもとへ別々に届いたのだ。
「ええ。あなたの恋人のイザベラさんと、私の婚約者のヒュー様が、二人で王都へ逃げたと。要するに、駆け落ちしたと書いてありました」
私は手元の薄紅色の封筒を見下ろした。裏には、王都の目抜き通りにある高級宿の名が、金文字で箔押しされている。宿の備えつけの封筒だ。
「そちらも、やはり同じ内容でしたか」
「ええ。そっくり同じです」
ジョナス様は口の端を歪め、皺だらけの便箋を軽く振ってみせた。
「『鳥籠の小鳥は、大空へ飛び立つ風を止められません。ジョナス、あなたの優しさは私の翼を重くするだけだったの。私たちの愛を許して』だそうです。ずいぶん詩的な幕引きですよ」
「まあ。随分と都合のいい小鳥ですこと」
私は手元の便箋を指先で弾いた。
「こちらは『愛のない義務だけの婚約に、僕の魂は窒息しかけていた。ロザリー、君の完璧さは僕を責め立てる刃と同じだ。僕はもっと不完全で、守ってやりたくなる可憐な女性と生きていきたい』ですって。私の父から前借りした馬車代も返さず、私が誕生日に仕立て直してあげた一番上等な外套を着て逃げた方の台詞とは思えませんわね」
「刃、ですか。お互い、ひどい言われようだ」
ジョナス様が低く息を漏らした。
子爵家の次男である彼は、普段なら仕立てのいい上着を気負いなく着こなし、誰にでも気さくに声をかける青年だ。けれど今日は、肩のあたりに疲れが張りついていた。
「笑えませんよ、ロザリーさん。そっちの手紙、最後に何が書いてありました?」
「『僕たちが落ち着くまで、滞在費の工面と実家への取りなしを頼む。君の賢さなら、両親をうまく宥めて廃嫡を止められるはずだ』。それから、当面の宿代として、普通の家なら一月暮らせるほどの金額を至急送れ、と」
「こっちもまったく同じです。至急送金してくれ、ジョナスなら私を助けてくれるはずだ、とね」
ジョナス様は便箋を乱暴に折り畳み、深い溜め息をついた。
「イザベラは昔からそうでした。小遣いを使い果たすたびに、少し泣き真似をして俺のところへねだりに来る。俺も馬鹿だったんです。頼りにされているんだと思い込んで、身の丈に合わない贈り物をせがまれるたびに、無理をして工面していた。都合のいい財布にされていると、気づきもしないで」
情けないのは、私も同じだった。
ヒュー様がほかの令嬢と親しげにしていると耳にするたび、私は物分かりのいい婚約者の顔をして、笑って聞き流してきた。取り乱して責め立てれば、男爵家の長女としての品位を疑われる。不満を呑み込んで、きちんと振る舞っていれば、いつか報われると信じていた。
その結果が、「息が詰まる」の一言での逃亡だった。
「それにしても」私は冷えた指先で便箋を握り直した。「なぜあの二人は、自分の親に直接泣きつかないのかしら」
「泣きつけないんですよ」
ジョナス様の答えは早かった。
「ヒューは先月も賭け事の穴埋めで父親を激怒させたばかりですし、イザベラも父親から『次に勝手な浪費をしたら一銭も出さない』と言い渡されていた。二人とも、とっくに実家の信用を使い切っているんです。今さら王都から金の無心なんて送れば、どんな雷が落ちるか分かっている。だから」
「だから、捨てたはずの私たちを間に挟もうというのね」
腹の底が、じわじわと熱くなってきた。
「甘く見られたものですわね、私たち」
「まったくだ」
「私、来月には港町のポート・ヘイヴンへ参りますの。母の姉の身辺整理を手伝って、一年あちらで暮らします。嫁ぐ前の一年は伯母のもとで、と婚約の時に両家で取り決めてありました。あんな人の尻拭いのために、取りやめて町に残る気なんて少しもありません」
早口で言い切ったところで、役場の裏口の扉が開いた。書類を抱えた役人が二人、こちらへ歩いてくる。
見られたら、どんな噂が立つか分からない。私はとっさに背筋を伸ばし、口角を引き上げた。何でもない顔を作るのは得意だった。頬がこわばって、うまく笑えていないのが自分でも分かったけれど。
その時、目の前の景色が遮られた。
ジョナス様が横へ一歩踏み出し、私の斜め前に立ったのだ。
彼は役人たちの視線から私の顔を隠すように、壁際へ体を寄せた。吹きつけていた風も止んだ。彼の背中越しに、足音が遠ざかっていく。
「……ジョナス様?」
彼は振り返らずに、低い声で言った。
「いま笑わなくていいですよ、ロザリーさん。ここで取り繕う必要はありません」
その声を聞いた途端、肩から力が抜けた。
人の目があるたびに、私はこうして平気な顔を作ってきたのだ。指先が寒さではなく悔しさで震えていたのを、彼はずっと見ていたらしい。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。さて、これからの話です」
足音が聞こえなくなると、ジョナス様は向き直った。
「あいつらの要求を呑む気は、俺にはまったくありません。十歳の妹を育てながら、逃げた恋人の生活費まで面倒を見る義理はどこにもない」
「私も同じです。一文たりとも送りませんし、親への取りなしもいたしません」
「ええ。ただ、放っておけば、あの二人は返事が遅いだけだと勝手に期待を膨らませる。きちんと決着をつけましょう。明日の十時、役場の貸し応接室を借ります。クラーク男爵とハワード氏には、俺から面談を申し込みます」
「父には私から話します。婚約を終わらせたいということも、今夜のうちに」
言い切ってから、明日よりも今夜の食卓のほうが怖くなった。父はきっと、なぜもっと早く相談しなかったのかと言うだろう。その問いに返す言葉を、私はまだ持っていない。
「両家への報告が済んだら、あいつらにも返事を出しましょう。援助も仲介もしない。自分で帰って説明しろ、と」
「短い手紙になりますね」
「ええ。小鳥も刃も出てきません」
思わず息が漏れた。笑ってしまったことに、自分で驚いた。
「連名にしましょう。私一人の返事では、強がっていると思われそうですもの」
「俺一人なら、もう一度泣きつけば出すと思われる。困った信用ですね、お互い」
ジョナス様が右手を差し出した。私はその手を握り返した。
ヒュー様の手は、いつも少し湿っていて、握るとすぐに離れた。この手は乾いていて、私が離すまで待っていた。




