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あなたの恋人、私の婚約者と駆け落ちしました  作者: 九葉(くずは)


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第10話

 十二月半ばの王都は日が短く、『灰雀亭』の屋根裏には、夕方のうちから煤けた闇が降りていた。

 イザベラはあかぎれだらけの手に息を吹きかけながら、冷えきった部屋で、一人で足音を待っていた。

 十日あまり前、ヒューは「港町へ行って、ロザリーから金を引き出してくる」と言い残して出ていった。その朝、イザベラが寝台の下の缶に貯めていた皿洗いの稼ぎも、一緒に消えていた。


 階段がぎしりと鳴った。

 荒い息とともに扉が開く。入ってきたヒューの姿を見て、イザベラは息を呑んだ。出ていった時より、さらに痩せていた。


「ヒュー様」

 イザベラは立ち上がり、彼に駆け寄った。

「どうだったの? ロザリーから、いくら出たの? 為替は!?」


 ヒューは答えなかった。震える手で上着を脱ぎ捨てると、寝台に倒れ込んだ。


「……一文も、出なかった」

「……え?」

「あの女、僕を門前払いしたんだ! 二度と顔を見せるなと言いやがった! 僕が膝をついて頼んだのに、虫でも見るような目で睨んで、扉を閉めたんだ!」


 枕に顔を埋めて、ヒューはかすれた声でわめいた。

 門前払いされた後は、帰りの運賃もなく、港の荷揚げ場で人足たちに笑われながら数日働き、ようやく王都へ戻る金をこしらえたのだという。


「……手ぶらで、帰ってきたの? 十日も私を放っておいて、私の稼ぎまで持ち出して、こんな凍えるような部屋に一人で置き去りにして、何ひとつ持って帰らなかったですって!?」

「僕のせいにするな! ロザリーが恩知らずだったんだ! あいつが少し金を出して、親父に一言取りなしてくれれば済んだ話なのに!」

「嘘つき! 全部、あなたの嘘じゃないの!」


 イザベラはテーブルの上の皿をひったくり、床に叩きつけた。食堂から持ち帰った、冷めたスープの皿だった。鈍い音を立てて陶器が砕け、冷えた汁が床板に広がった。


「王都で立派に暮らさせてやると言ったわね! ロザリーは僕の言うことなら何でも聞くと言ったわね! 全部、私を連れ出すための口から出まかせだったんでしょう!」

「君こそ何なんだ!」

 ヒューが跳ね起き、イザベラの腕を乱暴につかんだ。

「真実の愛だなんて甘ったるい声で言って、僕をその気にさせたのは君だろう! 父親から持参金が出る、ジョナスが金を送ってくる、そう言って、僕の財布を当てにしていただけじゃないか!」

「離して! 残りのお金を出しなさいよ! 私の稼ぎを盗んでいったんだから!」


 イザベラはヒューの上着のポケットに手を突っ込んだ。

 見苦しいもみ合いになった。爪が頬をかすめ、互いの襟首を引っぱり合い、テーブルが倒れた。二人で細々と使ってきた鍋や椀が、足元で踏みつけられていく。

 息を切らして離れた時、床に転がっていた銅貨は十数枚しかなかった。


「……もう、終わりだ」

 血の気の引いた顔で、ヒューが硬貨の半分を拾い集めた。

「僕はオークフィールドへ帰る。親父に殴られようが勘当されようが、この街で野垂れ死ぬよりましだ」

「……私もよ」


 イザベラは涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖でこすり、残りの硬貨を握りしめた。


「あなたとなんて、もう一秒だって一緒にいたくない」



 分けた小銭では、故郷までの運賃に遠く届かなかった。

 翌朝、ヒューはオークフィールドの方角へ向かう荷馬車の人足に雇われていった。荷台の麻袋の隙間に乗せてもらう代わりに、宿場ごとに荷を積み下ろしする約束だという。別れの言葉はなかった。

 イザベラは、通りの角にある鬘屋の前に立った。


 店先の硝子の向こうに、色とりどりの髪の束が吊るされていた。ジョナスがよく褒めてくれた、腰まである蜂蜜色の髪。毎晩百回梳かして、町の娘たちに羨ましがられた髪。

 店主は彼女の髪をひと房手に取り、艶と長さを確かめて、銀貨六枚と言った。故郷までの乗合馬車に、ようやく届く額だった。

 鋏の音が、耳のすぐ後ろで鳴った。首筋が急に寒くなった。


◇ ◇ ◇


 三日後。冷たい霙が降りはじめたオークフィールドの町外れを、イザベラは泥だらけの靴を引きずって歩いていた。

 肩の上で不揃いに切られた髪を、頭巾で隠している。

 実家のハワード邸へまっすぐ帰る勇気は、どうしても出なかった。

 足が向いたのは、町外れのベルン家の別邸だった。


(ジョナスなら。ジョナスなら、きっと許してくれる)


 門をくぐり、玄関の扉を叩いた。

 出てきたのは家政婦のマルタだった。イザベラの顔を見るなり、皺の刻まれた顔が強張った。


「……イザベラ様」

「マルタ、ジョナスを呼んで! 私よ、帰ってきたの!」

 押し問答になりかけたところで、奥から足音が近づいてきた。

「いいよ、マルタ。下がっていてくれ」


 現れたジョナスは、以前と同じ、仕立てのいい普段着を着ていた。淡い茶色の髪も、穏やかな目元も、何ひとつ変わっていなかった。

 イザベラはすがりつくように、玄関の中へ一歩踏み込んだ。


「ジョナス! 私よ、戻ってきたの! あんな男に騙されて、ひどい目に遭わされて……王都でずっと、あなたのことばかり考えていたのよ!」

 かつて彼を何度でも頷かせた、潤んだ目で見上げる。

「見て、髪まで売ったの。そうしなきゃ帰ってこられなかったのよ」


 頭巾を外して見せると、ジョナスの目がわずかに動いた。それだけだった。


「私、本当に反省したの。だから、もう一度やり直しましょう? ねえ、お父様がひどく怒っているの。あなたが間に入って、取りなしてくれない? それに、服も全部売ってしまって何もないの。また前みたいに、仕立て屋さんに……」

「イザベラ」


 低い声に、言葉が途切れた。

 ジョナスの琥珀色の目は、怒ってもいなければ、憎んでもいなかった。遠くの景色でも眺めるような、静かな目だった。


「怪我はないようだな。……話は、それだけか」

「え……?」

「お前が欲しいのは、俺への謝罪でも、俺自身でもない。怒っている父親の前に立たせる盾と、また好きに使える財布だろう」

「ち、違うわ! 私はあなたが恋しくて」

「嘘をつくなよ」

 ジョナスは静かに首を振った。

「俺も、頼られるのが嬉しかった。無理だと言えば嫌われると思って、言えなかった。でも、今は言える」


 そこでイザベラは、玄関脇の飾り棚に置かれた封筒に気づいた。封をしたばかりの手紙が一通、投函されるのを待っている。少し角張った、見慣れたジョナスの字だった。

 ポート・ヘイヴン。ロザリー・リンデル様。

 イザベラの喉が、ひくりと鳴った。

 ヒューが捨てた女。自分が笑って置き去りにした男。その二人の名前が、ひとつの封筒に並んでいた。


「お前とやり直す気はない。ハワード氏に取りなす理由もない。金も、服も、一文だって出さない」

「ジョナス……! お願い、見捨てないで! 私、どうしたらいいの!?」

「家に帰れ」

 ジョナスは扉の取っ手に手をかけ、まっすぐに彼女を見下ろした。

「自分のしたことの始末は、自分で親に頭を下げてつけるんだ。それが大人ってものだろう」


 扉が閉まった。

 鍵の回る固い音が、冷えた前庭に響いた。

 その場に座り込みそうになって、イザベラは慌てて膝に力を入れた。通りに人の気配がしたのだ。近所の女たちが二人、門の隙間からこちらを覗いていた。一人が、もう一人の耳に何か囁いた。

 イザベラは息を呑み、頭巾を目深にかぶり直した。


 泥だらけの服で、男の家の玄関先にすがりついて、追い払われた。それを見られた。耳の奥がかっと熱くなった。

 逃げるように門を飛び出し、人気のない裏道へ駆け込んだ。

 すがれる相手は、もうどこにもいなかった。

 霙が雪に変わりはじめていた。イザベラは濡れた肩を抱いて、実家へ向かった。


 ハワード邸の鉄の門は閉まっていた。呼び鈴の紐を引くと、しばらくして、門番の老人が顔を出した。泥だらけの娘を見て、老人は何度も目をしばたたいた。


「……お嬢様?」

「開けて。早く」

「旦那様に、伺ってまいります」


 老人は門を開けずに、母屋のほうへ戻っていった。

 降りしきる雪の中で、イザベラは自分の家の門の前に立ち尽くしていた。門が開いたのは、ずいぶん経ってからだった。


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