第14話
北の果樹園の納屋で、ヒューは初夏の強い日差しを避け、木箱に腰を下ろしていた。
朝から草刈りと摘果をして、昼の休みに入ったところだった。膝の上には、冬の間着倒した外套を広げている。裾のほつれを繕おうと針に糸を通した時、裏地の端に目が留まった。
擦り切れた布の合わせ目に、淡い灰色の細い絹糸で、驚くほど揃った古い縫い目が走っていた。
二年前の冬、夜会の帰りに馬車の扉で裾を裂いた。その翌朝、ロザリーが「直しておきましたわ」と、何でもない顔で渡してくれたものだ。
あの時、自分は礼も言わなかった。男爵家の跡取りに恥をかかせるなよ。そう言って受け取っただけだった。
ヒューの指が止まった。
納屋の柱には、今朝届いた父からの手紙がピンで留めてある。一行だけの手紙だった。
『養子縁組の儀は滞りなく済んだ』
それ以外のことは、何も書いていなかった。体を気遣う言葉も、帰ってこいとも。
この果樹園でどれだけ土を掘っても、どれだけ小銭を貯めても、この縫い目の主は戻ってこない。誰に見せるでもなく、自分のために時間を使い、気づかれないように手を尽くしてくれていた人は、もういない。
あの朝、ロザリーは何か言いかけていた。自分は懐中時計を見ながら、用が済んだなら下がってくれと遮った。
何を言おうとしていたのか。もう、分からない。
ヒューは鋏を手に取り、古い糸を切ろうとして、手を止めた。切ってしまえば、この外套から彼女の手の跡が消える。そんなことを考えた自分に腹が立って、外套を丸めて床に投げつけた。
しばらくして、それを拾い上げた。膝に戻した外套についた藁屑を、一本ずつ取った。
誰も見ていないのに、顔を上げられなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。オークフィールドの裏通りにある仕立て屋の作業場で、イザベラは洗い上げた布巾を絞っていた。
この春、ベルン家の別邸から大きな注文が入った。居間の長椅子にかける新しい掛け布と、揃いのクッション。仕上がった品は、昨日、職人たちが納めに行った。
繕った跡のいくつもある、あの長椅子だ。
昔、その長椅子に我が物顔で寝そべって、ジョナスに紅茶をねだった。ほつれたところに爪を引っかけて、もっと新しいのにすればいいのにと文句を言った。ジョナスは、そのうちな、と笑っていた。
「坊ちゃん、港町のお嬢さんが帰ってくるのに合わせて新しくしたんだってさ」
親方の奥さんが、針箱を片づけながら職人たちに話していた。
「郵便屋が言ってたよ。冬からこっち、五日にいっぺんは手紙が行き来してたって。ありゃ、秋までには式だね」
職人たちが笑った。イザベラの手から、布巾が落ちた。
拾い上げて、黙って絞り直した。
あの注文の縫いものに、イザベラは触らせてもらえなかった。最初の日に、クッションの角を一つ任されて、縫い目が曲がった。親方の奥さんはそれを見て、黙って布を取り上げた。
「大事なお客様の品だからね。あんたは洗いものをしておくれ」
それ以来、イザベラの仕事は布巾と雑巾だった。
夕暮れの作業場から、人がいなくなった。母屋から、食卓を囲む声が聞こえてくる。さっき呼ばれた時、意地を張らずに行けばよかった。今さら席に加わるのは、気が重かった。
昔なら、この時間はジョナスと町外れのカフェに寄って、新しいリボンのことや、その日の退屈を一方的に喋っていた頃だ。ジョナスは困ったように眉を下げながら、それでも彼女の気が済むまで聞いて、焼きたての菓子を皿に載せてくれた。
(……私、あの人に一度でも訊いたことがあったかしら)
何が好きなのか。今日は疲れていないか。何をしてもらえたら嬉しいか。
もらったリボンの色も、菓子の値段も覚えている。それなのに、ジョナスがどの菓子を好きだったのか、一つも思い出せなかった。
作業台の隅に、掛け布を裁った残りの端切れが置いてあった。明るい、海のような浅葱色だった。
イザベラは、その端切れに触れなかった。
◇ ◇ ◇
乗合馬車の窓に、見覚えのあるポプラ並木が流れ込んできた。
御者が真鍮のベルを鳴らした。到着の合図だ。車輪の軋みとともに、二日間の旅を終えた馬車が、オークフィールドの停留所に滑り込む。
ステップを降りて、初夏の乾いた土を踏んだ。顔を上げると、並木の下に二つの人影が見えた。
「ロザリーさん!」
駆けてきたのは、少し髪の伸びたジョナス様と、一年でぐんと背が伸びたリリーさんだった。リリーさんは見送りの日と同じ水色のワンピースを着ていて、その裾が少し短くなっていた。
ジョナス様は私の目の前で止まった。両腕が、少し持ち上がった。
それから、停留所の人目を思い出したらしい。持ち上がった腕は、行き場をなくして宙に止まった。
「……お兄ちゃん。抱きつきたいなら、どうぞ。わたし、あっち向いてるから」
リリーさんが呆れた声で言って、本当にくるりと後ろを向いた。
ジョナス様の耳が、みるみる赤くなった。私は笑ってしまって、それから自分から一歩近づいた。彼の外套の胸元に、額をつける。ほんの少しの間だけ。
「ただいま戻りました、ジョナス様」
「……おかえりなさい、ロザリーさん」
頭の上で、彼の声が少しかすれていた。片手に、私の最後の手紙が握られていた。
顔を上げると、リリーさんがちらりとこちらを振り返っていた。
「リリーさんも、迎えに来てくれてありがとう」
「……うん。手紙の約束、ちゃんと覚えてたから」
リリーさんは少しはにかんで、それでも去年のような警戒のない声で答えてくれた。
ジョナス様が手配してくれた荷馬車で、私はまず実家のリンデル男爵邸へ帰った。
父に無事を報告し、一年間送り出してくれたお礼を言った。父は、ずいぶん日に焼けたなと言って笑った。それから、嫁ぐまでの間でいいから、この家でも魚を選んでくれ、と。夕食は一緒にとる約束をして、私はもう一度出かけた。
夕暮れ前、ベルン家の別邸を訪ねた。
居間に通されて、私は入り口で足を止めた。
長椅子に、新しい掛け布がかかっていた。明るい浅葱色だった。揃いのクッションには、ほつれ一つない。もう、裏返す必要はなかった。
「……この色」
「停留所で、すぐに見つけられる色ですから」
ジョナス様はそれだけ言って、目を逸らした。
マルタさんが香りのいい紅茶と、焼きたてのスコーンを運んできた。一つ余分に置いて、「旅でお腹が空いたでしょう」と笑う。
三人で紅茶を飲んでから、私はリリーさんに向き直った。
「リリーさん。私、これからジョナス様と、この家での暮らしのことをお話ししようと思っているの。でもその前に、あなたの希望を聞かせてほしいの」
「わたしの、希望?」
「ええ。一緒に暮らすとしたら、気になることはない?」
リリーさんはスコーンを皿に置き、隣の兄を見た。ジョナス様が頷くと、私に向き直った。
「……絵を描いてる時は、急に部屋を開けないで。ちゃんとノックして、返事してから入って」
「ええ、もちろん」
「それから、夕方のお散歩は、今までどおりミナちゃんと行きたい。お休みの日は、お兄ちゃんと二人で出かける日も残してほしい」
「約束するわ。あなたの部屋はあなたの場所。お兄様との時間も、大事にしてね」
私が頷くと、リリーさんは納得したように、スコーンを大きくかじった。それから口をもぐもぐさせながら、付け足した。
「あと、ロザリーさんの魚の絵、見たい。長靴に見えるってお兄ちゃんが言ってたやつ」
「ジョナス様」
「……すみません」
やがてリリーさんは「庭でスケッチの続きをしてくる」と言って出ていき、居間には私とジョナス様だけが残された。
ジョナス様が向かいの椅子から立ち上がり、私の隣、浅葱色の長椅子に腰を下ろした。
「ロザリーさん。家のことは今までどおりマルタに頼みつつ、俺たちでできることは分けてやりましょう。それから冬には、約束どおり二人で、港町の伯母様を訪ねたい」
「ええ。私も、そうしたいです」
「手紙をしまう引き出しが、いっぱいになりました。これからは、書く前に、あなたに話したい」
ジョナス様は、私の両手を、骨ばった温かい手で包んだ。
「ロザリー・リンデルさん。俺と結婚してください。これから先の長い時間を、あなたと話し合いながら生きていきたい」
港町を発つ前から用意していた返事が、喉の手前でつかえた。笑おうとして、一度唇を結び直す。こんな時まで、きれいに言おうとしなくていいのに。
「……はい。喜んで。私を、あなたの妻にしてください」
重ねた手に力を込めて、私たちは顔を見合わせて笑った。
庭のほうで、リリーさんがマルタさんを呼ぶ声がした。何を描いているのだろう。その話も、明日、この長椅子でできるのだ。




