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あなたの恋人、私の婚約者と駆け落ちしました  作者: 九葉(くずは)


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最終話

 七月の半ば、ベルン家の別邸の中庭は、満開の白百合と夏の日差しに包まれていた。


 町外れの古い礼拝堂で誓いを交わしたあとの、小さな祝いの席だった。集まったのは、ごく近しい人たちだけ。王都から駆けつけてくれたジョナス様の兄君夫妻。私の父。港町から乗合馬車に揺られてきてくれたソフィア伯母様。マルタさん。それから、リリーさんがどうしてもと言って招いた、薬草屋のミナちゃん。


 大粒の宝石も、品定めするような貴族たちの目もない。レースをあしらった簡素な白い麻のドレスの私の前に、リリーさんが、真新しい額縁に入った絵を差し出した。


「ロザリーさん、これ」


 夏の青空の下に、この別邸が描かれていた。庭の木陰に、並んで立つ二人。背の高いほうの耳だけ、赤く塗られていた。


「お祝いに描いたの。わたしは描いてる人だから、入ってない」

「まあ。ありがとう、リリーさん。とっても素敵」

「これ、玄関の飾り棚に飾ってもいい? いちばん目立つところがいいの」

「もちろんよ。毎日、出かける時に必ず見るわ」


 屈んで額縁を受け取ると、リリーさんは満足そうに笑って、「ミナちゃん、玄関に飾るって!」と東屋のほうへ駆けていった。

 額縁の裏には、日付と、大きな字でリリーさんの名前が書いてあった。私はその字を、指の腹でそっとなぞった。


「いい式だったな、ジョナス」

 グラスを手にした兄君が、弟の肩を叩いた。

「派手な夜会より、ずっと地に足がついている。父上と母上も、きっと安心しているよ」

「兄貴に褒められると、調子が狂う」


 ジョナス様は照れくさそうに首をすくめ、私の手元を見た。

 私の指には、大きな宝石ではなく、町の銀細工師が丁寧に叩いて作った細い指輪が光っている。彼がその手を握ると、まだ慣れない輪が、指の付け根に当たった。

 少し離れたところで、伯母様と父が並んでこちらを見ていた。父はハンカチで目元を押さえていて、伯母様がその背中を叩いていた。


◇ ◇ ◇


 別邸での暮らしが始まって数日目の朝。私は台所で、さっそく小さな壁にぶつかっていた。

 テーブルには、マルタさんが焼いてくれた丸パンと、私が切った林檎の皿が並んでいる。陶器のポットに茶葉を入れようとした時、寝癖を押さえながら下りてきたジョナス様が、棚から別の缶を取り出した。


「ロザリー、茶葉はこっちの、少し苦いやつにしないか? 朝は目が覚めるほうがいいだろう」

「あら……」


 私はスプーンを止めた。

 前の私なら、ええ喜んで、あなたのお好きなほうで、と笑っていただろう。そして朝には強すぎる苦いお茶を、何でもない顔で飲み干していたはずだ。相手の望みを先回りして叶えるのが、愛されるための務めだと思い込んでいたから。

 私は一つ息を吸って、自分の手元にある浅葱色の缶を指さした。


「私は、朝はこちらの、香りのやわらかいお茶が好きなんです。ジョナス様の選んだほうは、私には少し渋すぎて、朝はお腹に障るの」

 ジョナス様は目を丸くして、それから喉の奥で笑った。

「そうか。じゃあ、小さいポットも出そう。どこにしまったかな」

「棚の上です。届きます?」


 彼が背伸びをして白い小さなポットを下ろし、私は自分の好きな茶葉を入れた。隣のポットからは、彼の好きな濃い香りが立ちのぼった。


「決まりだな。パンの焼き加減は? 俺は少し焦げ目がつくくらいが好きなんだけど」

「私は白くて、やわらかいほうが好きです。半分ずつ焼き分けましょう」


 私の白いパンと、彼の茶色いパンが、一枚の大皿に並んだ。食卓へ運ぶと、二階から下りてきたリリーさんが、迷いなく茶色いほうを一つ取った。兄妹は、好みまで似ているらしい。



 昼前、裏庭でハーブの植え替えをしていた時もそうだった。

 ジョナス様が物置から木の柵と杭を運び出してきて、私のすぐ足元に打ち込もうとした。


「通り道を広げようと思ってね。ここなら荷車も通しやすいだろう」

「ちょっと待ってください、ジョナス様!」

 私は泥のついた移植ごてを掲げて立ち上がった。

「そこに杭を打たれたら、植えたばかりのミントの根が潰れてしまいますわ。通り道は、三歩向こうにしてくださいな」

「えっ、あそこは土が固いんだよ。掘るのが大変なんだ」

「私のミントが枯れるよりはましです。手伝いますから、あちらを掘りましょう」

「手厳しいな。……分かった、鍬を取ってくる」


 ジョナス様はぶつぶつ言いながらも、笑って納屋へ向かった。私たちは並んで固い土に刃を入れ、汗だくになって、新しい小道を作った。


 買い出しから戻ったマルタさんは、「まあまあ、新婚早々泥だらけになって」と呆れ顔で、冷たいレモン水を出してくれた。リリーさんは「ミナちゃんと約束があるから出かけてくるね!」と麦わら帽子をかぶって飛び出していった。門の外で、ミナちゃんの呼ぶ声がする。ジョナス様が「夕飯までには」と言いかけるより早く、「帰るよ!」という返事が飛んできた。


 ジョナス様は口を開けたまま、しばらく門のほうを見ていた。それから小さく笑って、追いかけるのをやめた。



 夕暮れ、西の空がやわらかな茜色に染まりはじめた。

 一日の片づけを終えて、私たちは中庭に面したテラスのベンチに並んで座った。

 風が吹き抜けて、汗ばんだ首筋を冷やしていく。


「そういえば」ジョナス様が足を投げ出して、私の肩に自分の肩をもたせかけた。「伯母様、冬に俺たちが行くのを本当に楽しみにしてたな」

「ええ。二人分の大きな魚を用意しておくわ、っておっしゃっていましたもの」

「今度は丸二日、馬車であなたの隣に座っていられるんだな。手紙を何度も読み返さなくていい」

「私、途中で眠ってしまうかもしれませんわ」

「今だって眠そうだ。さっきから、あくびを三つも噛み殺してる」

「数えないでくださいな。今日は土を掘って、くたくたなんです」


 口を尖らせて言い返すと、ジョナス様がふっと吹き出した。膝の上に置いていた私の左手に、彼の右手が重なった。

 手紙を交わしていた頃は、触れることさえためらって、一行書くたびに言葉を選び直していた。今は、重なった手のぬくもりを、当たり前のものとして受け取れる。


「ロザリー」

「はい?」

「明日の夕飯は、あなたが作ってくれないか。港町で覚えたっていう、魚の香草焼きが食べたい」

「いいですけれど。その代わり、明後日はあなたが作ってくださいね。それから、食後の果物は、私が大きいほうをいただきますわ」

 ジョナス様は少しも驚かずに、楽しそうに目を細めた。

「いいよ。その代わり、一口もらえる?」

「ええ。あなたのも一口ください。どちらが甘いか、比べましょう」


 握られた手に、少し力がこもった。

 沈んでいく夕日を眺めながら、私は重なった指を握り返した。


「明日の朝も、あなたの淹れたお茶が飲みたいわ、ジョナス」


 言ってから、自分で気がついた。

 隣で、彼がぴたりと動きを止めた。


「……今、様が抜けた」

「抜けましたわね」

「もう一回」

「明日の朝、お茶と一緒に」

 ジョナス様は、いいえ、ジョナスは、耳の先まで赤くして笑った。

「浅葱色の缶のほうだな」


 私は頷いて、彼の肩に頭をあずけた。

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