第13話
六月の初め、ポート・ヘイヴンには、一年前に初めて降り立った日と同じ、潮の香りのする初夏の風が吹いていた。
石畳の坂を下りながら、私は手提げ籠を腕にかけ直した。
朝の市場には、獲れたての銀色の魚を並べた露店がひしめいている。毎朝のように通った魚屋の前で足を止めると、女将さんがすぐに顔を上げた。
「おはよう、ロザリーさん! いよいよ明日だね、発つのは」
「ええ。明日の朝の馬車で」
「そうかい。とうとう一年かい」
女将さんは前掛けで手を拭い、名残惜しそうに私を見た。それから台の奥から、紙で丁寧に包んだ干し魚の束を取り出した。
「寂しくなるよ。最初は色の白いお嬢さんが一人で、どうなることかと思ったけどさ。今じゃすっかりうちのいいお得意だ。これ、道中のつまみに持っていきな。あんたの選ぶ魚は、いつもいちばんうまそうだったよ」
「ありがとうございます。大事にいただきますわ」
包みを受け取って頭を下げると、女将さんは「泣かせるんじゃないよ」と笑って、私の背中を叩いた。けっこう痛かった。
坂の途中で振り返ると、青い海に白い帆がいくつも浮かんでいた。
一年前は、この坂を上るだけで息が切れた。今は、すれ違えば挨拶をしてくれる人がいる。お茶に誘い合う仕立て屋の友人もいる。この町に残って、伯母様と暮らし続けることだって、本当にできるのだ。
高台の家に戻って、日当たりのいい食堂で、伯母様と二人で昼食をとった。
香草をのせて焼いた白身魚と、茹でたての夏野菜。フォークを動かしていた伯母様が、ふと手を止めて私を見た。
「ロザリー。昨日の晩も言ったけれど、無理に帰らなくてもいいのよ」
穏やかで、けれど真剣な声だった。
「あなたの部屋はずっと空けておくし、私もこの一年、本当に楽しかった。あの町に戻らずに、このままここで暮らしたっていいの。誰に遠慮することもないんだから」
胸の内側が、じんわりと温かくなった。
「ありがとうございます、伯母様。この坂も、市場の騒がしさも、伯母様と過ごした時間も、全部大好きになりました。離れるのは、本当に寂しいです」
伯母様は黙って微笑み、続きを待ってくれた。私は手元のお茶に目を落とした。
「でも、帰ります。私、ジョナス様と一緒に暮らしたいんです」
口に出してみると、思っていたよりずっとはっきりした声だった。
前の婚約の時は、嫁いだら気軽に遠出などできなくなるものだと思い込んでいた。今は違う。
「結婚したら二度とここへ来られない、なんてことはありませんもの。今度の冬、彼を連れてまた来てもいいですか」
伯母様は目尻の皺を深くして、大きく頷いた。
「もちろんよ。あの青年を連れて、いつでもいらっしゃい。今度は二人分、大きな魚を用意して待っているわ」
昼食の後、自分の部屋に戻って荷造りを始めた。
帰りの馬車の日取りは、五日前の手紙でジョナス様に知らせてある。返事には、着く日の午後にリリーさんと二人で迎えに行くとあった。
その手紙は、帰ってから相談したいことの箇条書きで終わっていた。居間の窓の修理。冬の旅費のこと。私の本を置く棚。最後に一行、『夕方、一緒に歩く道』と書き足してある。その一行だけ、字が少し大きかった。
十一歳になったリリーさんのことも考えた。
この前の手紙には、ミナちゃんと二人で、川向こうの丘まで歩いていけるようになったと書いてあった。私が覚えている十歳のリリーさんのまま、待っていてくれるわけではないのだ。会ったら、まず丘で何を見たのか訊いてみよう。
ベッドの上に広げた二つのトランクに、一年分の暮らしを詰めていく。借りていた料理の本から、香草焼きの頁だけ書き写した。伯母様が余白に書き込んでくれた火加減の注意も、忘れずに写した。
机のインク壺に立てかけてあった水車の絵を、手に取った。緑のクレヨンは、一年でずいぶん薄れていた。二つに折って、トランクの蓋の内ポケットにしまう。
最後に、引き出しから厚紙の切符を取り出した。
昨日の午後、波止場の窓口で、自分のお金で買ったオークフィールド行きの切符だ。窓口で出発の日をもう一度確かめられた時、一日遅らせようかと少しだけ迷った。仕立て屋の友人に、明日の朝のお茶に誘われていたからだ。
結局、お茶のほうを今日の夕方に変えてもらった。別れを惜しんでくれる約束がある。そのことが少し可笑しくて、少し誇らしかった。
トランクの留め金を、ぱちんと鳴らした。
「ロザリー、お茶の約束に遅れるわよ」
廊下から伯母様の声がした。はい、と返事をして、私はもう一度だけ窓の外を見た。
初夏の風が海を渡ってきて、カーテンを揺らしていた。
明日、この町を出る。逃げるためではなく、帰りたい場所ができたから。




