第12話
一月の凍てつく朝だった。クラーク男爵邸の応接間には、暖炉に火が入っているとは思えないほどの冷気がこもっていた。
テーブルを挟んで、ヒューは革張りの長椅子に身を縮めていた。向かいの父、クラーク男爵は、年の瀬に這うようにして戻ってきた息子の痩せた顔を、表情の読めない目で見ている。
「……言い分は、それだけか」
低い声に、ヒューは身を乗り出した。
「信じてください、父上! 僕は王都で、たちの悪い商人に騙されたんです! それに、ロザリーの冷たさにも驚きました。僕がわざわざ港町まで出向いて頭を下げたのに、あいつは一文も出さず、父上への取りなしまで断ったんです! あいつが少しでも情けを見せてくれていれば、僕もこんな姿で帰ることには」
「黙りなさい」
父の手のひらが、重くテーブルを打った。
「暮れのうちに、王都へ人をやって調べさせた。宿の支配人も、時計を買い取った古物商も、河岸の親方も、皆同じことを言ったそうだ。家名を盾に、払いもせずに居座った。人の忠告をはねつけた。仕事を選り好みし、雇われた先では小銭をくすねた、と」
ヒューの顔から血の気が引いた。
「お前は家名を使って王都一の宿に居座り、金が尽きれば私の贈った時計を売り払い、最後には自分で捨てた婚約者に金をせびりに行った。今、お前が自分の口で言ったとおりだ。……すべて、お前が選んだことだ。ロザリー嬢のせいにするな」
父の声には、怒りすら残っていなかった。父は息子から目を外し、膝の上の自分の手を見ていた。
「お前を、この家の跡取りにしておくわけにはいかん。親族で話し合って決めた。分家のアランを養子に迎え、跡継ぎとする」
「な……! 父上、待ってください! 僕はこの家の長男です! 一度の過ちで、何もかも取り上げるなんて!」
「過ちなら償いようもある。お前には、もう信用が残っていないのだ」
男爵は一枚の書きつけを差し出した。
「飢え死にはさせん。北の親類の果樹園で、住み込みの人手を探している。冬の間は土起こしと枝打ちだ。寝床は納屋、食事は一日二度、麦粥が出る。行くか、自分で別の働き口を探すか。自分で選びなさい」
仕送りを頼もうと、ヒューは口を開きかけた。けれど父はもう立ち上がって、扉のほうへ歩いていた。
ヒューは書きつけをつかみ、かすれた声で「行きます」と言った。
応接間を出ると、廊下に従弟のアランが立っていた。
まだ十七の、ひょろりとした少年だ。昔はヒューの後ろをついて歩き、乗馬の真似をしたがった。そのアランの胴着から、金の鎖が垂れていた。
見覚えのある鎖だった。
「兄さん」
アランは気まずそうに、それでいて少し誇らしげに、胸のポケットに手を当てた。
「これ、伯父上が王都の古物商から買い戻してくださったんだ。兄さんが売った値の、倍で。……大事にするから」
蓋に彫られたクラーク家の紋章が、窓の光を受けて鈍く光った。
ヒューは何も言えずに、アランの横を通り過ぎた。
半月後。夜明け前の薄暗い果樹園で、ヒューは霜柱の立った固い土に、重い鉄の鍬を打ち込んでいた。
冷たい風が吹くたびに、腰の奥に鈍い痛みが走る。荒れた手のひらの皮がまた破れ、滲んだ血が鍬の柄を赤く汚した。親類の家の管理人は、男爵家の元跡取りであろうと容赦しない。「ぼやぼやするな、昼までにその列を全部起こせ」と怒鳴って通り過ぎていった。
成人の日に、お前はわが家の誇りだと肩を叩いてくれた父の手。その温かさを、もう思い出せなかった。
(……なぜだ。なぜ僕が、こんなところで土を掘っていなきゃならないんだ)
口の中で吐いた悪態は、冷たい畑に吸い込まれていった。誰も振り返らなかった。
土に埋まった石を拾おうと屈んだ時、胸のポケットが軽く揺れた。時計の入っていたポケットだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ハワード邸の居間でも、ひとつの結論が出されようとしていた。
地主のハワード氏は、疲れきった顔で肘掛け椅子に沈み込み、娘を見ていた。
「お前が王都から戻った時、私は少しでも反省の色があるかと期待した。だが、お前は何をした」
イザベラは身を縮め、指先をこすり合わせた。まだ短い髪が、首筋で揺れた。
「家に帰る前にベルン家の別邸へ押しかけて、ジョナス殿にすがりついて金をねだったそうだな。近所の者が見ていたぞ。玄関先で泣きついて、追い返されるところを」
「だって……お父様が怒っていらっしゃると思って……」
「甘やかした私にも責任はある。だが、もうお前の服代も小遣いも、贅沢のための金は一銭も出さん」
イザベラの目に、すぐ涙が浮かんだ。
「お父様、お願いです! もう二度とわがままは言いません! だから、どこか遠くのいいお家にお嫁に行かせてください! 少し離れた領地なら、私の噂なんて届きませんわ!」
最後には親が何とかしてくれる。都合のいい縁談を見つけて、ここから連れ出してくれる。
その甘い見込みを、父の一言が叩き潰した。
「装身具も、服も、髪まで売って男と逃げ回り、戻った足で元の恋人に金をせびった娘だ。どこの家が嫁に迎える? 世間はお前が思うほど甘くない。お前のための縁談など、どこを探してもない」
ハワード氏は立ち上がった。
「親戚の仕立て屋に、住み込みで繕いものと洗濯を手伝う口を頼んでおいた。部屋と食事は出る。嫌なら、自分の足で王都へ戻って皿でも洗うがいい」
イザベラは、泣き崩れることしかできなかった。
数日後、親戚の仕立て屋の薄暗い作業場の隅で、イザベラは山積みの古着のほつれを繕っていた。
昔は、下々の女のする仕事だと馬鹿にしていた針仕事だった。古い針を持つたびに、あかぎれの残る指が強張る。教わる相手の職人からは、縫い目が粗い、針目が揃っていない、と同じ小言を繰り返された。
王都から戻ってすぐ、昔のお茶会の友人たちに手紙を出した。誤解があったの、またお茶会に呼んでちょうだい、と。
返事は一通だけ来た。開けると、中にはイザベラ自身の手紙が入っていた。封も切られていなかった。添えられた小さな紙に、友人の母親の字で、今後この家の娘宛ての手紙は一切取り次がない、と書かれていた。
イザベラの手が止まった。
閉じ込められたわけではない。鎖で繋がれているわけでもない。ただ、困った時に肩代わりしてくれるはずだった人たちを、一人残らず、自分の手で失くしてしまったのだ。
(……ジョナスなら。ジョナスなら、こんな仕事、させなかったのに)
針が布から抜けず、歯で引っぱろうとして、職人に手の甲を叩かれた。イザベラは震える息を吐き、歪んだ縫い目を一つずつほどいた。窓の外が暗くなっても、手元の一枚は終わらなかった。




