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第9話 割れた封

「――来るな、と言っても来るんだろうな」

 午前零時。新橋駅の保守用の通用口の前で、久我さんはわたしを待っていた。

「約束の一つ目です。ひとりでは潜らない」

「……俺が破りかけた約束を、俺に突きつけるな」

 久我さんは小さく舌打ちして、鍵束から一本を選んだ。

 家を出るとき、わたしは母の寝室の扉をノックした。「真帆のお姉さんが帰ってこないの。探すのを手伝う」とだけ言った。母は何かを言いかけて、それから、「携帯は絶対に切らないで」とだけ言った。嘘ではない。でも、全部でもない。三つ目の約束は、まだ果たせていなかった。

 狭い階段を下り、関係者用の通路を抜ける。幻のホームへ続く鉄の扉は、半分開いていた。

 その隙間から、生あたたかい風が、今度ははっきりと吹きつけてきた。

 裸電球は、ひとつもついていなかった。久我さんのカンテラだけが、白いタイルの壁をぼんやりと照らす。

 昨日までは、拭い取られたようにきれいだった壁。その壁一面に、今は黒い染みが広がっていた。いや、広がり続けていた。墨をこぼした和紙のように、じわじわと、目に見える速さで。

 ホームのいちばん奥。ベニヤ板の仕切りは、内側から弾き飛ばされたように倒れていた。

 その奥に、柚希さんがいた。

◇

 柚希さんは、封石の前に立っていた。

 紺色の制服のまま。制帽はない。長い髪が乱れて顔にかかっている。そして――両手で、封石をつかんでいた。

 指の先から血が滴っている。爪が割れるほどの力で、石を壁から引き剥がそうとしている。

「柚希さん!」

 叫んだ。柚希さんは、振り向かなかった。

 カンテラの光が、彼女の背中を照らした。そこで、わたしは見た。

 柚希さんの肩から、腕から、指の一本一本まで。黒い糸のようなものが何本も絡みついていた。その糸は、封石の周りの壁の中へと吸い込まれている。まるで、壁の向こう側にいる何かが、操り人形を動かしているみたいに。

「――遅かったな、灯の娘」

 柚希さんの口が動いた。でも、それは柚希さんの声ではなかった。ひび割れた鐘のような、何重にも重なった声。

「この娘の祖母は、この封を守っていた。毎朝、切符を切る前に、この石に手を合わせていた。――守った者の血で外せば、順番など関係ない」

「その人を離せ!」

 久我さんが叫んで、お札を掲げて走り寄ろうとした。その足もとの床から、黒いものが噴き上がって、彼を壁に叩きつけた。カンテラが床を転がる。

 封石が、ぎしっと鳴った。

 細いヒビが、一本走る。二本。三本。

 わたしは、右手を差し出していた。

「――久我さん。振ります」

 約束の二つ目。振る前には、必ず言う。

 光が、刃の形になった。

 封石を守るか、柚希さんを守るか。

 考える時間はなかった。でも、考える必要もなかった。

 ――真帆を、巻き込まないで。

 あのときの柚希さんの声が、刃より先に、わたしの体を動かしていた。

 踏み込む。柚希さんの背中に向かって。刃を、彼女の体には触れさせずに、肩から壁へと伸びる黒い糸だけをなぞるように――

 弧を描いて、一太刀。

 何十本もの糸が、いっせいに切れた。

 柚希さんの体から力が抜け、封石から手が離れる。倒れこむ彼女を、壁から身を引き剥がした久我さんが、全身で受け止めた。

 胸の奥で、またひと月ぶんの何かが、ごっそりと削り取られた。

 そして――

 封石が、割れた。

 音はしなかった。ヒビが石を一周して、つながって、丸い石がふたつになった。ただそれだけのことだった。

 後に残った封石の割れ目から、暗闇が、噴き出した。

 上野で見た渦とは、まるで違う。底の抜けた水槽から水が流れ出すように、黒いものがどっとあふれ出し、ホームを飲みこみ、トンネルの方へ、そして――天井を伝って、地上の方へと流れていく。

「――二つ目」

 頭の内側で、何重にも重なった声が、うっとりとつぶやいた。

「燃やすなら、封のために燃やせばよかったものを。――愚かな娘だ」

「逃げるぞ!」

 久我さんが柚希さんを背負い、片手でわたしの手首をつかんだ。わたしは光を刃から松明に戻して頭上に掲げ、あふれる闇をかき分けながら、三人で階段を駆け上がった。

◇

 地上に飛び出したとき、新橋の街は、まだ眠っていた。

 サラリーマンの街の、真夜中。タクシーが数台、大通りを流れていく。居酒屋の前で、酔った人たちが笑っている。

 その、すべての足もとの下を。

 ――黒いものが、流れていくのがわかった。

 アスファルトの下、地面のもっと奥を。水脈のように、血管のように。銀座の方へ。

 大通りの街灯が、銀座の方向に向かって、ひとつ、またひとつと消えていった。

 そして、遠くで、何かが崩れる低い音がした。

◇

 翌朝のニュースは、『銀座八丁目で道路陷没 深夜でけが人なし』と伝えていた。水道管が破裂し、周辺の一部が停電した。原因は老朽化とみられる、とアナウンサーは言った。

 老朽化ではないことを、この都市で知っているのは、わたしと久我さんだけだった。

 ――いや。もう一人。この街のどこかで、封を割る手伝いをした誰かも、知っている。

 柚希さんは、大学病院に運ばれた。篠宮先生のいる病院だ。指の傷と脱水だけで、命に別状はなかった。

 午後、目を覚ました柚希さんは、あの夜のことをほとんど覚えていなかった。ただ、ひとつだけ。

「……バイトの帰りに、男の人に声をかけられたの。駅員の制服を着てた。『おばあさんのことで、話がある』って……顔は、思い出せない」

 病室を出ると、廊下で真帆が待っていた。

 真帆は何も言わずに、わたしに抱きついてきた。痛いくらい強く。

「……お姉ちゃん見つけてくれたの、澪なんでしょ」

 耳もとで、真帆が震える声で言った。

「言いたくなったら言ってって言ったけど。――もう、待てないかも」

 わたしの命は、あと九か月と、少し。

 閉じた封は、ひとつ。割られた封も、ひとつ。まだ無事な封は、十一。

 こめかみの銀色の髪は、三房になっていた。

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