第10話 カンテラの灯
「……全部終わったら、全部話す。だから、あと少しだけ待って」
病院の廊下で、わたしは真帆の肩に額をつけたまま、そう言った。
真帆は長いあいだ黙っていた。それから、洟をすする音がして、体が離れた。
「……あと少しって、どれくらい」
「わからない。でも、来年の夏よりは前」
真帆は、わたしの顔をじっと見た。そして、スカートのポケットから何かを取り出して、わたしの手に握らせた。
小さなキーホルダーだった。あの日撮った写真シールが、透明なプラスチックの中に入っている。『ずっと友だち』の落書きごと。
「お揃いで作ったの。渡すタイミング、なくしてたけど」
真帆は、赤い目のまま、いつもより少し下手に笑った。
「待つよ。――その代わり、それ、持ってて。なくしたら許さないから」
◇
日曜日の午後。谷中の霊園は、落ち葉のにおいがした。
上野から少し歩いたところにある、古い墓地だ。苔むした石の墓が、どこまでも並んでいる。そのひとつの前で、久我さんは線香に火をつけていた。
墓石には、『久我家之墓』とあった。その横の墓誌に、いくつかの名前が刻まれている。久我源一。久我浩二。久我由美子。
「じいさんと、親父と、おふくろだ」
久我さんは、線香を立てて手を合わせた。わたしも、その後ろで手を合わせた。
「親父も、帝都交通の保線の人間だった。じいさん、親父、俺。三代そろって、線路の下で生きてる家だ」
久我さんは、墓誌の『浩二』の文字を、指でなぞった。
「十五年前だ。俺が十歳のとき、親父は大手町のトンネルで死んだ。小さな落盤事故。報告書にはそう書いてある」
「……報告書には、ですか」
「じいさんは、葬式の夜に俺に言った。『あれは事故じゃない。浩二は、喰われたんだ』って」
風が吹いて、線香の煙が横に流れた。
「親父も、見える人間だったらしい。じいさんからカンテラを借りて、壁の染みを追いかけてた。――そしてある夜、ひとりで潜って、ひとりで何かを封じようとした。灯もないのに」
ひとりでは、絶対に潜らない。
約束の一つ目の意味が、ようやくわかった。
「俺は、じいさんを恨んだ。親父が死んだのは、じいさんの妄想に付き合わされたせいだって。魔物なんていない。それを証明するために、俺は保線に入ったんだ。線路の下には、コンクリートと土しかないって、自分の目で確かめるために」
久我さんは、笑った。自分を嘲うような、乾いた笑い方だった。
「三年前、じいさんが死ぬとき、病院のベッドでカンテラを俺に押しつけた。『透、お前はひとりで潜るな。灯の守り手を待て』って。――それが、じいさんの最後の言葉だった」
久我さんは、ジャンパーの胸ポケットを、上からそっと押さえた。そこには、いつものカンテラが入っている。
「葬式の帰りに、はじめてカンテラを持って夜勤に入った。そしたら、壁に染みが見えた。――十五年、俺が信じなかったものが、ずっとそこにあったんだ」
わたしは、何も言えなかった。
この人が「二度と使うな」と言ったときの声が、怒っているようにも泣いているようにも聞こえた理由。上野のトンネルで、わたしが駆けつけたときに、怒鳴りながらどこかほっとした目をしていた理由。
この人は、ずっと、ひとりで潜って死んだ父親の後ろ姿を見ていたのだ。
「……久我さんは、わたしが、お父さんみたいになるのが怖いんですか」
久我さんは、答えなかった。ただ、線香の灰が、ぽとりと落ちた。
「――君は、親父よりずっと強い。光もある。でも」
久我さんは、わたしのこめかみの、三房の銀色の髪を見た。
「親父は、一晩で死んだ。君は、一太刀ずつ削られていく。――そっちのほうが、ずっと残酷だ」
「でも、戻ってくることもあります。上野のときみたいに」
「……ああ」
「篠宮先生の写真の灯子さんは、八十まで生きたんです。だからわたしも、全部閉じて、生きます。久我さんのお父さんにはなりません」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
久我さんは、ちょっと目を見開いて、それから、墓石の方を向いて、小さくつぶやいた。
「――じいさん。守り手、来たぞ」
◇
霊園を出ようとしたとき、久我さんの携帯が鳴った。
画面を見た久我さんの顔が、わずかに強張った。
「……はい、久我です。――三枝さん」
電話の向こうから、落ち着いた男の人の声が、かすかに漏れてくる。内容までは聞き取れない。久我さんは、「はい」「いえ」「わかりました」と、短く繰り返していた。
電話を切ってから、久我さんはしばらく、画面を見つめたまま動かなかった。
「……保線の主任の、三枝さんだ。俺の上司で、――親父の、後輩だった人だ」
久我さんは、携帯をポケットにしまった。
「親父が死んだ夜、大手町のトンネルで親父を見つけたのが、三枝さんだ。葬式でも、いちばん泣いてた。俺が保線に入ったときも、親父の代わりだと言って、何でも教えてくれた」
「……その人が、何て」
「『最近、終電後に何をしてる。上野と新橋の入館記録に、お前の名前がある』って」
久我さんは、一度言葉を切った。
「それと、もうひとつ。――新橋の幻のホームで、割れた石の破片が見つかった。『事故調査のため』、三枝さんが自分で回収したそうだ」
封石の破片。
割れた封石でも、破片がその場にあれば、いつか繋ぎ直せるかもしれない。久我さんは、一昨日の夜、そう言っていた。
その破片を、誰かが持ち去った。
夕暮れの霊園を、カラスが一羽、鳴きながら横切っていった。
「……三枝さんは、保線の人ですよね。駅員の制服は」
わたしがそう訊くと、久我さんは少し間を置いてから、低い声で答えた。
「――三枝さんは、保線に移る前の十年間、駅務にいた。上野駅の助役だった人だ」




