第11話 日誌の最後のページ
「――隠してたものを、見せる」
月曜日の夕方。神田の古い喫茶店の、いつもの奥の席。久我さんは、保線日誌をテーブルの真ん中に置いた。
「昨日、墓の前で考えた。じいさんは親父に全部を話さなかった。親父はじいさんに黙って潜った。そうやって、久我の家は、大事なことを黙ったまま人を死なせてきたんだ」
久我さんは、日誌の最後のほうを開いた。そこには、曾祖父の墨の字とは違う、ボールペンの小さな字が並んでいた。
「じいさんの字だ。曾じいさんの日誌の続きに、じいさんが書き足してた」
わたしは、その字を目で追った。
『灯子、八十にて死去。守り手は死して、また生まれる。父の言うとおりであれば。』
『次の守り手は、灯子の死の翌年に生まれた。だが、地喰の方が早かった。』
『地喰は、封の隙間から手を伸ばし、生まれたばかりの娘の灯を、半分喰らった。』
『灯を喰われた守り手は、刃を持てぬ。ただ、病を得る。体の中の灯が、少しずつ細ってゆく病。』
指先が、冷たくなっていく。
次の行は、文字が少し乱れていた。
『上野の病院にて、その娘を見収けた。十二の年から入院。病室の窓から、地下鉄の入口が見える。娘は一日じゅう、その入口を見ている。』
――病室の窓からは、地下鉄の入口が見えた。
『俺には何もできない。灯のない守り手に、封の話をして何になる。ただ、遠くから見守るだけだ。』
『平成――年、冬。娘、十七にて死去。』
『娘の喰われた半分の灯は、今も地喰の腹の中にある。次に生まれる守り手は、半分の灯しか持たぬだろう。刃は持てても、命は短い。十七を越えることは、あるまい。』
『地喰を討てば、喰われた灯は還る。――だが、十三の封の底の底に眠るものを、どうやって討つのか。俺にはわからない。』
そして、最後の一行。
『娘の主治医、篠宮。篠宮医師の孫。』
◇
喫茶店のサイフォンが、こぽこぽと音を立てていた。
わたしは、日誌から目を離せなかった。泣いていることに、しばらく気づかなかった。
「……これ、わたしです」
声が、かすれた。
「前の人生の、わたしです。十二歳から入院して、窓から地下鉄の入口をずっと見て、十七で死んだ。――全部、覚えてる」
久我さんは、穏やかにうなずいた。驚いてはいなかった。
「……そうじゃないかと思ってた。君は初めて会った夜、浅草の車止めの前で『終点まで来たよ』って泣いてた。――初めて地下鉄に乗った十六歳の子が、誰に向かってそう言うんだろうって」
あの夜、聞かれていたのだ。
「じいさんは、病室の外からずっと君を見てたんだ。何もできないまま。――たぶん、それがじいさんの、いちばんの後悔だった」
久我さんは、『十七を越えることは、あるまい』の行を、指でそっと隠した。
「この行を、君に見せたくなかった。それが隠してた理由だ」
「でも、その下には、書いてありますよね」
わたしは、涙を手の甲で拭った。
「地喰を討てば、喰われた灯は還るって。――わたしの病気は、病気じゃない。取られたものを、取り返せばいいんです」
十三の封をすべて閉じ直せば、灯は還る。地喰を討てば、喰われた灯も還る。
前の人生のわたしが、病室の窓からずっと見ていたもの。あの階段の下にあったのは、終点だけじゃなかった。あの子の、半分の灯だったのだ。
「……篠宮先生は、前の人生のわたしも、診ていたんですね」
「日誌に書いてあるのは、それだけだ。――十七年前なら、今の篠宮先生は四十そこそこだ。同じ人だろうな」
久我さんは、日誌を閉じた。
「君が生まれ変わったことを、あの先生が知ってるのかどうかはわからん。だが、余命を告げた日に『灯』という言葉を使った。検査もせずに『細くなっている』と言った。――偶然じゃない」
「……わたし、確かめます」
「俺も行く」
「病院は地下じゃないです。約束の範囲外です」
久我さんは、次の言葉を探すように口を開きかけて、それから、あきらめたように首を振った。
「……病院の前までは行く。それと、終わったらすぐに連絡しろ」
◇
翌日の夕方。大学病院の外来は、もう受付を終えていた。
わたしは、篠宮先生の研究室の扉をノックした。納得できないことがあるので、少しだけお話を――受付でそう言うと、看護師さんは少し迷ってから、先生に内線をかけてくれた。
「どうぞ」
穏やかな声が返ってきた。
狭い部屋だった。壁一面の本棚に、医学書と古いファイルがびっしりと詰まっている。窓の外は、もう薄暗い。
篠宮先生は、机の前の椅子に座ったまま、わたしにも椅子をすすめた。わたしは座らなかった。
「白峰さん。納得できないことというのは」
わたしは、深く息を吸った。
前の人生の、最後の冬。回診に来た主治医に、わたしは訊いた。その先生は、少し困った顔で笑って、こう答えた。
「先生。――地下鉄の終点って、何があるの」
篠宮先生の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
先生は、ゆっくりと立ち上がった。机の上のペンが、転がって床に落ちた。それを拾おうともせずに、先生はわたしの顔を見つめていた。まるで、幽霊を見るような目で。
「……何もないよ」
篠宮先生の口から、その言葉がこぼれた。十七年前と同じ、少し困ったような声で。
「ただ、線路が終わってるだけだ――」
そこまで言って、先生は片手で口もとを覆った。その手が、震えていた。
「……覚えていたんですか。あのことを」
「全部、覚えています。病室の窓も、消毒液のにおいも、先生のその声も」
篠宮先生は、本棚に背中を預けて、長いあいだ目を閉じていた。窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていく。
「――あの子が死んだ夜、私は祖父の日記を初めて開きました」
篠宮先生の声は、低く、ひどく疲れていた。
「灯の病。守り手。封。地喰。――医者として、信じられるはずがなかった。でも、あの子の病は、どんな医学書にも載っていなかった。あの子は、私の目の前で、少しずつ灯が消えるように死んでいった」
先生は、目を開けて、わたしを見た。
「それから十七年、私は、次の守り手を待っていました。今度こそ、死なせないために。――そして、あなたが私の診察室に入ってきた」
「……だったら、手伝ってください。地喰を討てば、喰われた灯は還るんです。わたしは、生きられるんです」
篠宮先生は、ゆっくりと首を横に振った。
「白峰さん。あなたの灯は、半分しかない。その半分で、十三の封の底に眠るものと戦えば、あなたは必ず死ぬ。十七を待たずに」
先生は、床に落ちたペンを、ようやく拾い上げた。そして、それを机の上に置くと、穏やかな、いつもの声に戻って言った。
「だから、私はあなたを止めなければならない。――どんな手を使っても」




