第12話 制服の男
篠宮先生の「どんな手」は、二日後にわかった。
「澪。来週の月曜から、検査入院することになったから」
夕食のあと、母はそう言って、一枚の紙をテーブルに置いた。『入院のご案内』。期間の欄には、『未定』とあった。
「篠宮先生が、お母さんに直接お電話をくださったの。澪の病気のこと、全力で調べるって。――いい先生に当たって、よかったね」
母は、本当にうれしそうだった。余命を告げられてから初めて見る、希望にすがるような笑顔だった。
わたしは、何も言えなかった。
病室に入ったら、もう終電のあとに地下へ潜ることはできない。篠宮先生は、わたしを前の人生と同じ白い部屋に閉じ込めて、十七まで生かそうとしているのだ。
十七まで。ただ、生かすだけ。
月曜まで、あと四日だった。
◇
「入館記録を調べた」
翌日の放課後。神田の喫茶店で、久我さんは何枚かのコピー用紙をテーブルに並べた。保守用の通用口の、出入りの記録だという。わたしたちの入った夜の分は、久我さんのIDで、久我さんの名前が並んでいる。
「問題は、こっちだ」
久我さんは、赤いペンで丸をつけた行を指さした。
上野でヒビが広がった夜。新橋の封石の周りに、最初の傷がついたと思われる夜。柚希さんがいなくなった夜。どの夜も、終電のあとに、同じIDが通用口を通っていた。
その横に印字された名前を見て、わたしは息を止めた。
『久我 浩二』
「……お父さんの……」
「十五年前に死んだ人間のIDだ。本当ならとっくに失効してるはずのものが、なぜか生きてる。誰かが、システムの上で生かし続けてたんだ」
久我さんの声は、不自然なほど落ち着いていた。その分だけ、コーヒーカップを握る指に力が入っていた。
「親父の制服も、鍵も、カードも。あの夜、トンネルで親父の体から取り外して、会社に返す手続きをしたのは――」
久我さんは、そこで言葉を切った。続きは、言わなくてもわかった。
「……それだけで、三枝さんだとは決められない。他にも触れられた人間はいる。当時の総務も、事故調査の担当も」
久我さんは、自分に言い聞かせるようにそう言った。
わたしは、何も言わなかった。父親の代わりに何でも教えてくれた人。葬式でいちばん泣いていた人。その人を疑うことが、この人にとってどれほど苦しいか。それは、わたしにも少しわかる気がした。
◇
土曜日。わたしは、真帆の家を訪ねた。
柚希さんは、もう退院していた。指先に包帯を巻いたまま、自分の部屋のベッドに座って、窓の外を見ていた。真帆は「お茶いれてくる」と言って、気を利かせるように台所へ消えた。
「……助けてくれて、ありがとう」
柚希さんは、窓の外を見たままそう言った。
「覚えてないけど、知ってるの。あの夜、真っ暗なところで、すごくきれいな白い光を見たことだけは」
「……柚希さん。声をかけてきた人のこと、何でもいいんです。思い出せること、ありませんか」
柚希さんは、しばらく目を閉じていた。
「……機械油のにおいがした。駅員さんなのに、保守の人みたいなにおい。それと――制帽の徽章が、今のと違った」
「違う……?」
「帝都交通のマークって、十年くらい前に変わったの。その前の古い徽章。うちのおばあちゃんの写真で見たことがあるから、覚えてたんだと思う。――その人、『おばあさんは立派な人だった』って言ってた。『新橋の石に、毎朝手を合わせてた』って」
柚希さんの祖母を、そこまで詳しく知っている人。古い制帽を持っている人。駅員なのに、機械油のにおいがする人。
駅務に十年いて、それから保線に移った人。
台所から、真帆がお盆を持って戻ってきた。「紅茶しかなかったけどいいよね」という明るい声が、部屋の空気をふっとゆるめた。
帰り際、玄関で靴を履いていると、真帆が小声で言った。
「……澪。あと少しって、もうすぐ?」
「……うん。もうすぐ」
真帆は、何か言いたそうな顔をして、それから、わたしのカバンにぶら下がったお揃いのキーホルダーを指でつついた。
「ちゃんとつけてるじゃん」
笑った真帆の目が、少しだけ濡れていた。
◇
その夜。柚希さんの話を伝えると、電話の向こうの久我さんは、長いあいだ黙っていた。
「……三枝さんは、俺が小さいころ、よく家に飯を食いに来てた。親父とふたりで酔っぱらって、俺を肩車してくれた。親父が死んだあとも、毎年、親父の命日には墓に花を供えてくれてた」
「……はい」
「その人が、親父のIDで、親父の死んだトンネルに入って、封を割る手伝いをしてる。――っていうのか」
答えられなかった。
そのときだった。電話の向こうで、短い着信音が鳴った。久我さんの携帯に、メッセージが届いた音だった。
久我さんは、しばらく何も言わなかった。
「……久我さん?」
「――三枝さんからだ」
その声は、乾いていた。
「『今夜、終電のあと、大手町の第三封の前に来い。浩二さんのことで、お前に話しておかなきゃならないことがある。ひとりで来い』――だそうだ」
「……第三封、って書いてあるんですか」
「ああ。――封のことを知ってる。それだけで、もう答えは出てるな」
「わたしも行きます。約束の一つ目です」
「……澪」
久我さんが、はじめてわたしを名前で呼んだ。
「これは、俺の家の話だ。親父の死んだ場所で、親父のことを、親父を知ってる人間から聞く。――それは、俺ひとりでやらなきゃならないんだ」
「久我さん!」
「約束を破って、すまない」
電話が、切れた。
もう一度かけ直しても、電源が入っていないという音声が流れるだけだった。
時計を見る。十一時五十二分。




