↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/20

第13話 十五年前の夜

十二時三分。大手町行きの最終電車は、ほとんど空っぽだった。

 母の寝室の扉には、また手紙を挟んできた。『大事な人を追いかけます。必ず帰ります。澪』。三度目の手紙だった。そして、たぶん、最後の手紙だと思った。月曜には入院が待っている。

 大手町駅で降りて、ホームの端の柱の陰に身を隠した。駅員さんが空の車両を確かめ、電車が車庫へ去っていく。ホームの明かりが半分落ちる。改札のシャッターが下りる音が、遠くで響いた。

『――送電停止。保守作業を開始してください』

 構内放送が、誰もいないホームに流れた。線路の脇の電気を送るレールから、電気が消える合図だ。久我さんが前に教えてくれた。この放送の前に線路に降りたら、人は死ぬ。

 わたしは、ホームの端から線路へ降りた。

 右手に小さな灯をともして、松明のように掲げる。刃にはしない。歩くための光だけ。

 大手町は、帝都でいちばん深く、いちばん複雑な地下だと、久我さんが言っていた。五つの路線が交わり、古いトンネルと新しいトンネルが、何層にも重なっている。今は使われていない連絡通路も、いくつもある。

 迷うと思った。でも、迷わなかった。

 壁の染みが、道を示していた。どの染みも、同じ方向へ伸びている。帝都の中心へ。そして、その手前にある、第三の封へ。

 二十分ほど歩いただろうか。線路から外れた古い連絡通路の奥から、声が聞こえてきた。

 わたしは灯を消して、壁に背中をつけた。

◇

 連絡通路の奥は、少し広くなっていた。古いポンプ室のような場所だ。錯びた配管が天井を這い、壁の一方に、あの丸い封石が埋め込まれている。ヒビはまだ、ない。

 封石の前に、二つの影が向かい合っていた。

 ひとりは、カンテラを提げた久我さん。

 もうひとりは、作業着姿の、五十代の男の人だった。白髪まじりの短い髪。丸い背中。懐中電灯を足もとに置いて、その光の外側に立っている。それが、三枝さんだとわかった。

「――ひとりで来たな」

 三枝さんの声は、低くて、かすれていた。

「……親父のIDで、終電後に出入りしてたのは、あんたか」

 久我さんが、前置きもなく訊いた。その声は、怒ってはいなかった。ただ、引き絞られた弦のように張り詰めていた。

 三枝さんは、首を横に振った。

「違う。――いや、半分はそうだ。俺も、あのIDを追いかけて、この三か月、何度も入った」

「……追いかけて?」

「三か月前だ。入館記録の点検で、浩二さんのIDが使われてるのを見つけた。十五年前に失効させたはずのものが――俺が、この手で失効の手続きをしたはずのものが、なぜか生きてた」

 三枝さんは、作業着のポケットから布の包みを取り出して、久我さんに差し出した。

 布の中には、小さな石のかけらがいくつも入っていた。丸い封石を、砕いた破片。

「新橋の石だ。事故調査だと言って回収した。あのまま置いておいたら、あいつに持ち去られると思った。――お前なら、これが何かわかるだろう」

 久我さんは、破片を受け取らなかった。ただ、三枝さんの顔を見ていた。

「……あいつって、誰だ」

 三枝さんは、すぐには答えなかった。

 足もとの懐中電灯の光が、錯びた配管を下から照らしている。三枝さんは、その光の中には入らず、じっと封石を見つめていた。

「――十五年前の夜、浩二さんはひとりで潜ったんじゃない」

 久我さんの肩が、小さく動いた。

「俺も、一緒だった。浩二さんに誘われたんじゃない。俺が、勝手についていったんだ。壁の染みの話を、俺だけは笑わずに聞いてたからな。――そして、この部屋で、あれに会った」

 三枝さんは、封石の上の、何もない壁を見上げた。

「壁から、天井から、黒いものがあふれてきた。浩二さんは俺を通路の外へ突き飛ばして、『逃げろ、人を呼んでこい』と叫んだ。――俺は、逃げた。振り返りもせずに」

 声が、震えた。

「一時間後、人を連れて戻ったとき、この部屋には何もなかった。黒いものも。浩二さんも。――床に、制服と、ヘルメットと、IDカードが落ちていただけだった」

「……何を、言ってる」

 久我さんの声が、かすれた。

「親父の葬式は、やった。棺もあった。」

「棺の中は、空だったんだ」

 三枝さんは、その場に膝をついた。コンクリートの床に、両手をついて。

「『落盤に巻き込まれて、俺が遺体を見つけた』――そう報告したのは、俺だ。遺体なしでは、行方不明になる。お前も、おふくろさんも、何年も待たされる。それに――俺が逃げたことも、全部話さなきゃならなくなる。――俺は、臆病者だったんだ」

 三枝さんの背中が、小刻みに震えていた。

「十五年、ずっと、お前の父親の代わりになろうとしてきた。そんなことで、許されるはずはないとわかっていても」

 久我さんは、何も言わなかった。カンテラを持つ手が、白くなるほど握りしめられていた。

 わたしは、壁の陰から出た。

「……久我さん」

 久我さんが振り向いた。その目が、わたしを見て、怒るより先に、ほんの一瞬だけ、ほっとしたように緩んだ。

 三枝さんが、顔を上げた。そして、わたしのこめかみの銀色の髪を見て、息を吸った。

「――灯の……」

 三枝さんは、そのまま、わたしに向かって深く頭を下げた。床に額がつくほどに。

「十五年前、あなたがいなかったから、浩二さんは――いや。いなかったんじゃない。俺たちが、待てなかったんだ」

 どう答えればいいのか、わからなかった。

 十五年前。前の人生のわたしは、もうこの世にいなかった。灯を半分喰われたまま、その二年前に、上野の病室で死んでいた。この人たちが待っていた守り手は、どこにもいなかったのだ。

「……三枝さん。さっき、『あいつ』って言いましたよね」

 わたしが訊くと、三枝さんはゆっくりと顔を上げた。

「……三か月、あのIDを追いかけて、一度だけ、後ろ姿を見た。上野のホームの端で。帝都交通の古い制帽。保線の作業着。――十五年前の、あの夜と同じ格好だった」

 久我さんの体が、びくりと強張った。

「……それは、もう、人間じゃない」

 三枝さんが、そう言い終えるか終えないかのうちに。

 連絡通路の奥の闇から、足音が聞こえてきた。

 重い安全靴の、ゆっくりとした足音。そして――機械油のにおい。

 懐中電灯の光が届くか届かないかの境目で、足音が止まった。

 着古した保線の作業着。古い徽章の制帽。帽子のつばの下の顔は、闇に溶けて見えない。

 その人影は、しばらく黙って、こちらを見ていた。それから、ひどく懐かしそうな、穏やかな声で言った。

「――透。大きくなったな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。