第14話 残り三か月
「……親父」
久我さんの口から、その言葉がこぼれた。十歳の子どものような、頼りない声だった。
人影が、一歩前に出た。懐中電灯の光が、その顔を下から照らした。
久我さんに、似ていた。無精ひげも、目の下の隈も、少し伸びた前髪も。十五年分、年を取らないままの、久我さんによく似た顔。
ただ、その左半分だけが、影に飲まれていた。
左の頰から首もとまで、肌のかわりに黒いものがゆっくりと渦を巻いている。左の目には、白目がなかった。ただ、底のない穴のような黒が、こちらを見ていた。
「――浩二さん……」
三枝さんが、膝をついたまま、うめくように言った。
「三枝。よく逃げたな。あの夜、お前が逃げてくれて、俺はうれしかったんだ」
穏やかな声だった。本当に、心からそう思っているような声だった。それが、いちばん怖かった。
「親父……生きてたのか」
「生きてる、というのとは少し違うな」
浩二さんは、自分の左の頰に、そっと手を当てた。
「あの夜、地喰は俺を喰わなかった。腹の中に、そのまましまったんだ。――暗くて、暖かい場所だ。そこには、地喰がこれまでに喰ったものが、全部ある」
浩二さんは、久我さんをまっすぐに見た。
「由美子もいるぞ、透」
久我さんの体が、びくりと震えた。
「……おふくろは、病気で死んだ。五年前に。地喰なんかとは関係ない」
「関係ないものなど、この帝都の地の上にはないんだ。この土の上で死んだものは、みんな地喰の腹に沈んでくる。――封が全部割れて、地喰が目を覚ませば、それを全部、地の上に返してくれる。約束したんだ」
浩二さんの黒い左目が、わたしの方を向いた。
「お嬢さん。君の半分の灯も、そこにあるよ。小さな女の子の形をして、病室の窓の前に座ってる。――封を割れば、君にも戻る。十七を越えて、生きられるんだ」
心臓が、大きく鳴った。
病室の窓の前に座っている、小さな女の子。
――嘘だ。
わかっていた。でも、一瞬だけ、信じたくなった。その一瞬を、たぶん浩二さんも、この十五年、何度も繰り返してきたのだ。
「……地喰が目を覚ましたら、帝都の地面は喰われます。地の上で生きている人たちが、全部」
わたしは、右手をゆっくりと差し出した。
「それで返ってくるものなんて、わたしはいりません」
浩二さんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「そうか。――なら、仕方がない」
浩二さんの左腕が、影に溶けた。そして、何本もの黒い糸に分かれて、封石へと伸びていった。
「やめろ、浩二さん!」
三枝さんが飛びかかった。黒い糸の束に、体ごとぶつかっていく。十五年前に逃げたその足で、今度はまっすぐに。
糸が、むちのようにしなった。三枝さんの体が弾き飛ばされ、錯びた配管に叩きつけられて、動かなくなった。
糸が、封石に絡みつく。新橋で柚希さんの指を操っていたのと同じ、あの糸だ。封石がぎしっと鳴って、最初のヒビが走った。
「――久我さん。振ります」
「……澪」
久我さんが、わたしを見た。その目に、「斬るな」と「斬れ」が、同じだけ浮かんでいた。
「――お父さんは、斬りません」
わたしは、刃をつくらなかった。
代わりに、封石へ駆け寄って、その表面に両手を押し当てた。
上野で封を閉じたときのように。刃にするのではなく、ただ、灯を分けるように。胸の奥の熱を、両手から封石へ流し込む。
封石が、白く光った。
糸が、焼けるようにじりじりと後ろへ退がる。封石のヒビが、少しずつふさがっていく。
「――無理だよ、お嬢さん」
浩二さんの声がした。糸の力が、強くなる。封石の向こう側から、壁の奥から、地の底から、何かが封石を押し底げようとしている。
わたしは、さらに灯を流し込んだ。
一太刀で、ひと月。それは、刃の決まりだった。でも、これには決まりがない。流し込んだぶんだけ、そのまま消えていく。一秒ごとに、何日分もの命が、封石の向こうへ吸い込まれていくのがわかった。
それでも、手を離さなかった。
ここを割られたら、大手町の地面が喰われる。三枝さんも、久我さんも、ここにいる。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
ふいに、糸の力が抜けた。
振り返ると、久我さんが浩二さんの前に立ちはだかっていた。カンテラを、その黒い左半分の顔のすぐ前に突きつけて。
「――親父。じいさんのカンテラだ。覚えてるか」
浩二さんが、カンテラを見た。その右の目だけが、少しだけ揺れたように見えた。
「……透」
「帰ってこい。俺は、もう十歳じゃない。――今度は、俺が追いかけて、連れ戻す」
浩二さんは、しばらく何も言わなかった。それから、影の中へ、ゆっくりと後ずさりしていった。
「――また来る。封は、まだ十もある」
足音が、闇の奥へ遠ざかっていった。
封石のヒビは、ふさがっていた。第三の封は、守られた。
それを確かめた瞬間、わたしの視界から、色が消えた。
自分が倒れていくのがわかった。久我さんが何かを叫んでいる。その声が、分厚い水の向こう側から聞こえるように遠かった。
◇
目を開けると、白い天井があった。
消毒液のにおい。点滴の管。心電図の、規則正しい小さな音。
――知っている。これは、全部知っている。
「……澪!」
母の顔が、視界に飛び込んできた。泣きはらした目。乱れた髪。その後ろに、穏やかな白衣の姿があった。
「……三日間、眠っていたんですよ」
篠宮先生は、母に廊下へ出るようにと、そっと目で合図した。母が出ていくと、先生はベッドの横の椅子に座った。
「久我さんという方が、あなたを抱えて、救急の入り口まで運んできたそうです。――あの人は、あなたの余命のことを知っていましたよ。ひどく、自分を責めていた」
篠宮先生は、手にしたカルテを、一度閉じた。
「白峰さん。あなたの灯は、この三日で、一気に細くなりました」
「……どれくらいですか」
篠宮先生は、答える前に、少しだけ目を伏せた。
「――あと、三か月です」
わたしは、何も言わなかった。
枕元の小さな鏡に、自分の顔が映っていた。黒かった髪の、左半分が、すっかり銀色に変わっていた。
「これで、あなたはもう、ここから出られません。――出しません」
篠宮先生は、そう言って立ち上がり、病室を出ていった。
わたしは、窓の方へ顔を向けた。
病院の前の大通り。その向こうの歩道に、四角い口が、地面にぽっかりと開いていた。朝の人たちが、その階段に吸いこまれていく。
地下鉄の入口だった。
――また、この窓だ。




