第15話 普通の終わり方
病室の日々は、前の人生とよく似ていた。
朝の検温。点滴の交換。味の薄い食事。午後の回診。そして、何もすることのない、長い長い夕方。
違うのは、窓の外の地下鉄の入口が、もう遠い場所じゃないことだけだった。あの階段の下に何があるのか、今のわたしは知っている。終点の車止めも、終電の窓の外の暗闇も、その奥でうごめくものたちも。
入院して四日目に、真帆が来た。
病室の入り口で、真帆は立ち止まった。わたしの髪の左半分を見て。手に提げたコンビニの袋が、がさりと鳴った。
「……それ、メッシュじゃないよね」
「……うん」
真帆は、引きつった顔で笑おうとして、失敗した。それから、何も言わずにベッドの横の椅子に座って、袋からプリンを二つ取り出した。
「……これ、好きだったよね」
ふたりで、黙ってプリンを食べた。誕生日の夜に、母と黙ってケーキを食べたときのように。
「……澪。あと少しって、今?」
真帆が、スプーンを握ったまま訊いた。
わたしは、首を横に振った。
「……もう少しだけ。ほんとに、もう少しだけ」
「……そっか」
真帆は、それ以上、何も訊かなかった。ただ、帰り際に、入り口で振り返って言った。
「澪。待つの、得意じゃないって言ったよね。――当たりだよ」
真帆の足音が、廊下を小走りに遠ざかっていった。泣き声を、病室に残さないように。
◇
久我さんが来たのは、その翌日だった。
篠宮先生が、入り口のすぐ内側に立っていた。「十分だけです」と、穏やかに、でもはっきりと言って。
久我さんは、辛そうな顔でわたしの髪を見た。それから、目をそらさずに、こう言った。
「――もう、戦うな」
上野公園で「駄目だ」と言ったときの声とは、違っていた。怒ってもいない。泣いてもいない。ただ、そう決めた人の声だった。
「新橋の破片を、三枝さんとふたりで継ぎ直してる。じいさんの日誌に、お札の作り方が書いてあった。灯ほどの力はないが、少しのあいだなら、封の代わりになる」
「……お父さんは」
「俺が連れ戻す。そう言っただろう」
久我さんは、ジャンパーの胸ポケットを、上からそっと押さえた。カンテラの形に、布が膨らんでいる。
「君は、もう十分やった。上野も、大手町も、君が閉じた。柚希さんも、三枝さんも、俺も、君が助けた。――残りは、大人の仕事だ」
「……久我さん」
「三か月、おふくろさんと真帆ちゃんと、ちゃんと過ごせ。それが、俺の頭む、最後の約束だ」
十分は、あっという間だった。
病室を出るとき、久我さんは篠宮先生に、深く頭を下げていた。「この子を、よろしくお願いします」と。篠宮先生は、何も言わずに、一度だけうなずいた。
◇
その夜、消灯のあと。篠宮先生が、ひとりで病室に来た。
白衣ではなく、灰色のセーター姿だった。先生は窓際に立って、しばらく外の地下鉄の入口を眺めていた。
「……十七年前も、こうして窓の外を見ていました。あの子の病室で」
先生は、振り返らずに言った。
「あの子の最後の言葉を、覚えていますか」
覚えていなかった。心電図の音が遠くなっていく感じと、真っ暗なところで聞いた声。その前のことは、霧の向こうにある。
「『先生、次は、終点まで行けるかな』――そう言いました。私は、『行けるよ』と答えました。医者が、ついてはいけない嘘でした」
先生は、ゆっくりとこちらを向いた。
「白峰さん。あなたは、終点まで行けた。前の人生の願いは、もう叶ったんです。――だから、もういいじゃないですか」
その声は、穏やかで、やさしかった。
「戦わなければ、三か月あります。最後のひと月も、できるかぎり苦しくないようにします。お母さんのそばで、友だちと、窓から冬と春を見て。――前の人生では、それもできなかった。あの子の最後は、苦しいだけだった」
普通の終わり方。
先生が、十七年かけて用意してきたもの。前の人生のわたしに、与えられなかったもの。
それは、ひどく魅力的に聞こえた。
「……少し、考えさせてください」
先生は、うなずいて病室を出ていった。
◇
二日後の夜だった。
談話室のテレビが、臨時ニュースを流していた。廊下の向こうから、アナウンサーの緊張した声が聞こえてくる。
『――赤坂見附駅周辺で大規模な停電が発生。地下鉄の複数の路線で運転を見合わせています。また、周辺では地面の亀裂や、建物の傾きが報告されており――』
赤坂見附。第四の封。
枕元のスマートフォンが、震えた。久我さんからだった。
『赤坂見附。親父がいる。三枝さんが』
そこで、メッセージは途切れていた。
かけ直しても、つながらなかった。一度、二度、三度。
「……澪」
ふいに、声がした。
ベッドの横の簡易ベッドで眠っていたはずの母が、起き上がって、わたしを見ていた。
母は、カーディガンのポケットから、三通の紙を取り出した。折り目が、何度も開いては閉じたように柔らかくなっている。
わたしが置いていった、三通の手紙だった。
「……澪は、小さいころから、地下鉄の入口ばかり見てたね」
母の声は、震えていなかった。
「二歳のころから。バスの窓からも、車の窓からも。いつも、あの四角い口をじっと見て、でも、絶対に乗りたいとは言わなかった。――何かを待ってるみたいな顔で」
母は、三通の手紙を、わたしの手に握らせた。
「何をしてるのか、お母さんにはわからない。――行かないでって、言いたい。今すぐここで、澪を抱きしめて、どこにも行かせたくない」
母は、わたしの銀色の髪に、そっと触れた。
「でも、澪がこの窓から、またそうやって入口ばかり見てるのは、お母さん、もっと嫌」
わたしは、三通の手紙を握りしめた。
窓の外では、地下鉄の入口が、夜の中に黒く口を開けていた。
わたしは、ベッドから足を下ろした。




