第16話 窓の外へ
「――お母さん。全部、話す」
時間はなかった。だから、いちばん大事なことだけを話した。
前の人生のこと。上野の病室で、十七で死んだこと。終電の窓の外の暗闇と、そこに住むもののこと。わたしの右手から生まれる光のこと。十三の封と、一太刀でひと月と、喰われた半分の灯のこと。
母は、一度も口を挟まなかった。
話し終えると、母はしばらく黙って、わたしの顔をじっと見ていた。それから、少しだけ笑った。
「……信じるわ。澪は嘘をつくとき、右の眉がちょっとだけ上がるのよ。今は、上がってない」
「……そんなの、知らなかった」
「十六年、見てきたんだもの」
母は、わたしの両手を、自分の両手で包んだ。冷たくなった指先が、少しずつあたたまっていく。
「前の人生の澪のお母さんに、会ってみたかったわ。――その人に、『あなたの娘さんは、今度は自分の足で、終点まで行きましたよ』って、教えてあげたい」
母の目から、涙がこぼれた。でも、声は最後まで震えなかった。
「行きなさい。――そして、帰ってきなさい。三通も手紙を書いて、三回ともちゃんと帰ってきたんだから。四回目も、できるでしょう」
「……うん」
「それと」
母は、簡易ベッドの上の自分のコートを、わたしの肩にかけた。
「真帆ちゃんには、自分で言いなさい。あの子、一晩じゅう廊下で泣いてたんだから」
◇
電話は、一回でつながった。
「……真帆。あと少し、終わり」
『……うん』
真帆は、ただそう答えた。それから、電話の向こうで、深く息を吸う音が聞こえた。
わたしは話した。母に話したことを、もう一度。もっと短く。でも、嘘はひとつもなく。
余命のことも。三か月のことも。
真帆は、途中から泣いていた。声を殺さずに。堤防でわたしがそうしたような、そんな泣き方じゃなかった。子どもみたいに、しゃくり上げて泣いていた。
『……なんで。なんでひとりで全部やってたの。なんでもっと早く言わないの。ばか。澪のばか』
「……ごめん」
『ゆるさない。――絶対、ゆるさない』
真帆は、しゃくり上げながら繰り返した。それから、鼻をすする大きな音がして、声が変わった。
『……だから、沖縄は延期しない。来年の夏。絶対。三か月でも、ひと月でも、関係ない。封とかいうの全部閉じて、灯とかいうの取り返して、来年の夏、わたしと海に入るの。わかった?』
「……うん。わかった」
『それと、もうひとつ』
真帆の声の向こうで、誰かが何かを言った。
『……お姉ちゃんが、代わってって』
電話の声が、落ち着いた、少し低い声に変わった。
『澪ちゃん。柚希です。――赤坂見附には、駅員用の古い通路があるの。祖母が勤めてたころから使われてない、地上から直接下りられる通路。入り口の場所を、わたしは知ってる』
「……柚希さん」
『真帆を巻き込まないでって言ったのは、わたし。――でも、もう巻き込まれちゃったものね』
柚希さんは、少しだけ笑ったようだった。
『入り口まで、案内させて。――そこから先は、あなたにしか行けないんでしょうけど』
◇
病室の扉を開けると、廊下に篠宮先生が立っていた。
灰色のセーターのまま。当直の夜なのだろうか。それとも、こうなることをわかっていて、ずっとそこで待っていたのだろうか。
「――出しませんと、言いましたよ」
先生の声は、穏やかだった。でも、その体は、廊下の真ん中から動かなかった。
わたしは、母のコートの前を握りしめた。
「先生。前のわたしに、『行けるよ』って言ってくれましたよね」
先生の肩が、小さく動いた。
「先生は、あれを嘘だって言いました。でも、嘘じゃなかったんです。わたしは、本当に終点まで行けた。――先生のその一言があったから、十七年たって、もう一度生まれて、終電に乗る勇気があったんだと思います」
篠宮先生は、何も言わなかった。
「だから、今度は自分の足で行きます。窓の外を見ているだけで終わるのは、もう嫌なんです」
長い、長い沈黙だった。
やがて、篠宮先生は、セーターのポケットから小さなケースを取り出した。
「……これを」
開けると、注射器が一本と、小さなアンプルが入っていた。
「灯を増やす薬ではありません。そんなものは、この世のどこにもない。ただ、体を数時間だけ、もたせる。祖父の日記に、灯子さんに使ったと書いてあった処方です」
先生は、その場でわたしの腕をとり、手際よく注射をした。冷たいものが血管を流れて、それから、体の奥に少しだけ力が戻ってくるのがわかった。
「私の車で、赤坂見附まで送ります。――医者としては、最低の判断です」
先生は、そう言って、十七年ぶりに笑ったような顔をした。
「でも、あの子の主治医としては、たぶん、いちばん正しい」
◇
深夜の外堀通りを、篠宮先生の古いセダンが走っていく。
後部座席には、わたしと母と、病院の前で待っていた真帆。助手席には、道を案内する柚希さんが座っていた。真帆は、車に乗るなりわたしの頭を一度だけ軽く叩いて、それからずっと、わたしの手を握ったまま黙っていた。
赤坂に近づくにつれて、街の灯りが消えていった。
信号も、街灯も、ビルの窓も。警察の赤い回転灯だけが、あちこちで瞬いている。通行止めのテープ。道路に走った、稲妻のような亀裂。
そして――その亀裂の内側から、黒いものが、ゆらゆらと湧き上がっていた。
みんなには、見えていない。わたしにしか。
「……ここよ」
柚希さんが指さしたのは、大通りから一本入った、古いビルの裏手だった。錯びた鉄の扉が、地面に密着するようについている。その隣に、文字の消えかけた小さなプレート。『帝都交通 非常口』。
扉の隙間から、生あたたかい風が、吹き上げていた。
わたしは、車を降りた。
母が、真帆が、柚希さんが、篠宮先生が、わたしを見ていた。誰も、「行かないで」とは言わなかった。
真帆が、自分のカバンのお揃いのキーホルダーを、わたしに向かって掲げた。わたしも、自分のを掲げた。『ずっと友だち』の落書きが、赤い回転灯の光の中で、ちらりと光った。
わたしは、非常口の扉に手をかけた。
十二歳から十七歳まで、病室の窓から、ただ見ていただけの、あの四角い口。
今度は、窓の外じゃない。




