第17話 地喰の手
非常口の階段は、どこまでも続いていた。
右手に灯を掲げて、一段ずつ下りていく。篠宮先生の注射のおかげで、足はちゃんと動いていた。でも、胸の奥の熱は、上野のころよりずっと小さい。ろうそくの炎のように、ちろちろと揺れている。
壁の染みは、もう染みではなかった。壁そのものが、黒く、ゆっくりと脈打っている。生き物の内臓の中を、歩いているようだった。
階段の底の扉を押し開けると、そこは、二つの路線が重なり合う古い乗換通路の、さらに下の機械室だった。
奥の壁に、第四の封石。
その封石の前に、三枝さんがいた。
背中を封石に押しつけるようにして、座り込んでいる。両手で、封石にお札を押し当てたまま。額からも、脇腹からも、血が流れていた。それでも、その手は封石から離れていなかった。
封石には、半分までヒビが入っていた。『十三ノ四 割ル』の文字が、お札の縁からにじみ出している。
そして、部屋の真ん中で――久我さんと、浩二さんが、向かい合っていた。
久我さんは、カンテラを掲げていた。その小さな光が、浩二さんの黒い糸を、わずかに押しとどめている。でも、カンテラのガラスには、もうヒビが入っていた。
「久我さん!」
「――澪! なんで来た……」
怒鳴りかけた久我さんの声が、途中で切れた。わたしの髪の左半分と、病院の寝間着の上に羽織った母のコートを見て。
「母にも、真帆にも、全部話してきました。――約束の三つ目です」
久我さんは、もう何も言わなかった。
「――来たのか、お嬢さん」
浩二さんが、こちらを向いた。
大手町で会ったときより、影は広がっていた。顔の左半分だけではない。左の肩も、左の腕も、左の足も。人間の形をしているのは、もう右半分だけだった。
「……三枝さんを、離してください」
「離してるよ。あいつが、自分でそこに座ってるんだ」
浩二さんは、三枝さんの方を見やった。その右の目に、一瞬だけ、何かが宿った気がした。
「……浩二さん」
三枝さんが、血で濡れた顔を上げた。
「――全部、話してくれ。透に。十五年前の、本当のことを」
「……三枝、それは」
「ここに座ってるあいだ、ずっと、お札を通して聞こえてたんだ。封石の向こう側の声が。――地喰が、笑いながら話してた」
三枝さんは、久我さんを見た。
「透。あの夜、俺が逃げられたのは、俺の足が速かったからじゃない。――浩二さんが、地喰と取引をしたからだ」
久我さんが、息を止めた。
浩二さんは、長いあいだ黙っていた。それから、右半分だけの口もとで、少しだけ笑った。
「……あの夜、地喰は言ったんだ。『封に触れられる人間の手がほしい』と。『お前が俺の手になるなら、そこの臆病者は見逃してやる。地上にいるお前の家族にも、手は出さない』と」
「……親父」
「俺が封を割るたびに、三枝も、透も、由美子も、生かしておいてもらえた。――そう信じて、十五年、俺は地喰の腹の中から手を伸ばしてきた」
浩二さんの右の目から、一筋、涙がこぼれた。左の黒い目は、何も流さなかった。
「由美子が死んだとき、ようやくわかった。約束なんか、はじめからなかったんだ。――でも、そのころにはもう、俺の半分は俺のものじゃなかった。『由美子も腹の中にいる』。あいつにそう言われて、信じることしか、できなくなってた」
浩二さんは、わたしを見た。右の目だけで。
「お嬢さん。俺を斬ってくれ」
「――やめろ!」
久我さんが叫んだ。
「君の灯で斬れば、俺の中の地喰の糸は焼ける。俺ごとな。――そうすれば、あいつは封に触れる手をなくす。少なくとも、人間の手で封を割られることは、もうない」
浩二さんの左半分が、うごめいた。黒い糸が、また封石の方へと伸びはじめる。右半分の浩二さんが、歯を食いしばって、それを引き戻そうとしているのがわかった。
「早く――俺が、俺でいられるうちに」
わたしは、右手を差し出した。
「――久我さん。振ります」
「澪!」
「お父さんは、斬りません。大手町でも、そう言いました」
光が、刃の形になった。
いつもより、ずっと細い刃だった。縫い針のように細くて、でも、いちばん純粋な白。
新橋で柚希さんを救ったとき。あのとき、わたしは人を斬らずに、糸だけを断った。でも浩二さんの糸は、外側にはない。体の内側、左と右の、ちょうど境目にある。
人間の半分と、影の半分の、境目。
――そこだけを、斬る。
踏み込んだ。
浩二さんの胸の真ん中。額から鼻筋を通って、あご、首、胸、おなか。人間と影がふたつに分かれている、その細い線の上を。上から下へ、一太刀で。
浩二さんの体には、刃は触れなかった。
ただ、影の半分だけが、剥がれた。
古い壁紙がめくれるように、左半分の黒いものが、浩二さんの体から離れていく。その下から、青白い、でも確かに人間の肌が現れた。
浩二さんが、崩れ落ちた。久我さんが、カンテラを放り出して、その体を抱きとめた。
「親父!」
「……透」
浩二さんの両目が、開いた。右も、左も。どちらも、人間の目だった。
「……大きくなったな。こんなに重かったか、お前」
「重いのは、親父のほうだ」
久我さんの声が、十歳の子どものように震えていた。
胸の奥で、またひと月ぶんの何かが、削り取られていた。でも、後悔はしなかった。
残り、ふた月。
◇
――だが。
剥がれ落ちた影の半分は、消えていなかった。
床の上で、人の半分の形をした黒いものが、ゆっくりと起き上がった。そして、かたちを崩しながら、水のように床を滑って、第四の封石へと向かっていった。
「三枝さん!」
叫んだときには、もう遅かった。
黒いものは、三枝さんの体をすり抜けて、お札の上から、封石のヒビの中へと、吸い込まれていった。
お札が、燃え上がった。
封石が、割れた。
そして――それだけでは、終わらなかった。
地の底から、低い音が響いてきた。ひとつ。ふたつ。みっつ。遠くで、何かが続けざまに割れていく音。
第五。第六。第七。
「――手は、もう要らぬ」
頭の内側に、何重にも重なった声が響いた。終電の車内でも、新橋でも聞いた、あの声より、ずっと深く、ずっと大きな声。
「十五年、人間の中に置いた俺の半分が、ようやく戻った。――礼を言うぞ、灯の娘。お前たちが、扉を開けたのだ」




