第18話 大手町の迷宮
非常口から街へ出たとき、赤坂の空は、まだ真っ暗だった。
久我さんが浩二さんを背負い、わたしが三枝さんに肩を貸して、長い階段を上りきった。扉の外では、篠宮先生が車のトランクを開け、救急箱を広げて待っていた。
「――こちらへ。そこに寝かせて」
先生の声は、もう、いつもの穏やかな医者の声だった。母と真帆と柚希さんが、車から毛布を運んでくる。三枝さんの脇腹に、先生の手が手際よくガーゼを押し当てていく。
地面が、また揺れた。
遠くで、警報が鳴っている。永田町の方向。市ヶ谷の方向。そして――飯田橋の方向。外堀の向こう側のビルの窓が、ひとつ、またひとつ、暗くなっていく。
「……外側から、封が割れていく」
毛布にくるまれた浩二さんが、かすれた声で言った。左半分の肌は、まだ青白い。でも、その目は、もうどちらも人間の目だった。
「地喰は、帝都の中心の、ずっと下で眠ってる。十三の封は、そこへ続く道にかけた鍵だ。――だが、本当の扉は、ひとつしかない」
「……扉?」
「大手町の第三の封だ」
浩二さんは、久我さんの腕をつかんだ。
「大手町は、帝都の中心にいちばん近い。いちばん深い。地喰の本体へは、あそこからしか下りられない。――俺があの夜、引きずり込まれたところだ」
大手町の封は、わたしが閉じた。その代わりに、倒れて三日眠って、余命が三か月になった。
「他の封が全部割れても、第三が残っていれば、地喰は地上までは上がってこられない。――だから、あいつは今夜、全部の力を、大手町に向けてくる」
「……大手町を、守ればいいんですね」
わたしは、立ち上がった。膝が少し震えた。篠宮先生が、ちらりとこちらを見た。
「注射の効き目は、あと二時間と少しです」
「十分です」
十分かどうかなんて、わからなかった。でも、そう答えるしかなかった。
「俺も行く」
浩二さんが、毛布をはねのけて起き上がろうとした。篠宮先生が口を開きかけて、それから、閉じた。
「大手町の地下は、俺がいちばんよく知ってる。十五年、あいつの手として、あそこを歩き回ってたんだ。――せめて、それくらいは役に立たせてくれ」
久我さんは、父親の顔をじっと見ていた。それから、黙って肩を貸した。
母が、わたしの前に立った。
何も言わずに、わたしのコートのボタンを、上からひとつずつ留め直していく。小学校の入学式の朝に、そうしてくれたように。
「――四回目よ」
「……うん。四回目」
真帆は、何も言わなかった。ただ、お揃いのキーホルダーを、もう一度、わたしに向かって掲げた。
◇
大手町の地下は、もう、わたしの知っている場所ではなかった。
五つの路線が交わる、帝都でいちばん深く、いちばん複雑な地下。そのすべてのトンネルと通路の壁から、黒いものがあふれ出していた。そして、その全部が、同じ方向へ流れていく。
第三の封へ。
「――右だ。その先の、鉤の形の通路」
久我さんの肩につかまった浩二さんが、迷わずに道を示していく。地図にも載っていない、古い工事用の縦坑。戦争中に掘られて、そのまま忘れられた退避壕。十五年、地喰の手として歩き回った人にしかわからない道だった。
わたしは、灯を松明のように掲げ続けた。振らない。掲げるだけ。光の輪の外側で、野良犬のような影たちが、何十匹も、うなり声のような音を立てながらついてくる。
でも、わたしの灯は、上野のときよりずっと小さかった。光の輪が、少しずつ、縮んでいく。
古い縦坑を抜けた先の、広い空間だった。
前にも、後ろにも、天井にも。影が、山のように身を寄せて、わたしたちを取り囲んでいた。その奥に、第三の封のある古いポンプ室へ続く、狭い連絡通路の入り口が見える。
あと少し。でも、その少しが、遠い。
「……振るしかない。久我さん」
「待て」
浩二さんが、久我さんの肩から手を離した。
「――あいつらは、俺のにおいを知ってる」
浩二さんは、自分の左の手のひらを見つめた。青白い肌の奥に、まだ、かすかに黒いものが澱んでいる。
「十五年、あいつらを連れて歩いてきた。俺が反対側に走れば、半分はついてくる」
「親父――」
「透。十五年前、俺は三枝を逃がした。――それは、俺が一生でいちばん、まともにできたことだった」
浩二さんは、笑った。今度は、両方の口もとで。
「今度は、俺が逃がす番だ」
「ふざけるな! 今度は俺が追いかけて、連れ戻すって言っただろう!」
「ああ。だから、追いかけてくれ」
浩二さんは、久我さんの胸に、こぶしを軽く当てた。
「全部終わったらな。――お嬢さんを、終点まで連れていってやれ」
そして、浩二さんは、光の輪の外へ走り出した。
重い安全靴の足音。機械油のにおい。影たちが、いっせいにそちらを振り向いた。山のような闇が、半分、その足音を追って流れていく。
「親父!!」
久我さんが、追いかけようとした。わたしは、その腕をつかんだ。両手で。全力で。
「――久我さん。今は、前です」
久我さんの腕が、震えていた。それから、ゆっくりと、力が抜けた。
ふたりで、連絡通路へ飛び込んだ。
◇
第三の封石は、白く光っていた。
二週間前、わたしが流し込んだ灯が、まだそこに残っていた。でも、その光は、今にも消えそうに瞬いている。封石の周りの壁という壁から、天井から、床から、黒いものが、封石を押しつぶすように締めつけていた。
ヒビが、一本、走った。
わたしは、封石に両手を重ねた。久我さんが、ヒビの入ったカンテラを掲げて、その後ろに立った。
「――澪。全部は流すな。今は、ヒビを止めるだけでいい」
「……はい」
少しだけ、灯を流した。ヒビが、止まった。
そのときだった。
足もとが、消えた。
床が崩れたのではなかった。コンクリートも、その下の土も、まるで砂糖が溶けるように、音もなく溶けてなくなったのだ。喰われたのだと、あとになってわかった。
久我さんが、封石の縁に片手でしがみつき、もう片方の手で、わたしの手首をつかんでいた。
わたしの足の下には、何もなかった。
いや――あった。
どこまでも、どこまでも広がる、巨大な空洞。帝都の下に、帝都よりも大きな暗闇が、口を開けていた。その壁に、線路が、トンネルが、血管のように張り巡らされている。地下鉄の線路を、その裏側から見ているのだと、わかった。
十三の封のうち、割れた封のある場所から、黒いものが滝のように流れ落ちている。そのすべてが、空洞のいちばん底へと吸い込まれていく。
そして、その底で――
目が、開いた。
ひとつだけの、巨大な目。帝都の町ひとつ分ほどもある、底のない黒い瞳。
その瞳が、ゆっくりと、わたしを見上げた。




