第19話 帝都が揺れる夜
「――澪! 上を見ろ! 下を見るな!」
久我さんの声が、頭の上から降ってきた。
わたしは、空洞の上にぶら下がっていた。久我さんの片手だけが、わたしの手首をつかんでいる。そのもう片方の手は、封石の埋め込まれた壁の、わずかな凹みに指をかけているだけだった。
下では、あの目が、まだわたしを見ていた。
「――小さいな、灯の娘」
声がした。頭の内側ではなかった。空洞そのものが、響いていた。壁に張り巡らされた線路が、その声に合わせて、かすかに震えている。
「百年前の娘の灯は、もっと大きかった。その次の娘の灯は、半分、俺が喰った。――そしてお前は、その残りの半分を、もうほとんど燃やし尽くしている」
空洞の壁の、あちこちから。割れた封のある場所から。黒い滝が、さらに勢いを増して流れ落ちていく。
「もう、手は要らぬ。五つの封が開いた。そこから流れ込む帝都の地の力で、残りは俺が自分で割る。――夜明けまでにな」
その言葉を合図にしたように。
遠くで、またひとつ、低い音がした。
「……第八だ」
久我さんが、歯を食いしばって、わたしを引き上げた。腕の筋が、千切れるほどに張り詰めている。封石の縁の、わずかに残った床の上に、ふたりで転がり込んだ。
下から、風が吹き上げてくる。生あたたかい、巨大な生き物の息のような風。
◇
コートのポケットで、スマートフォンが震えていた。
こんな地の底で、なぜ電波が届くのかはわからない。地喰が帝都を喰うために開けた穴が、地上と地の底を、ひとつにつなげてしまったのかもしれない。
『――澪! 澪、聞こえる!?』
真帆の声だった。その向こうで、サイレンがいくつも重なって鳴っている。
「……真帆。聞こえる」
『地面が、割れてるの。丸の内の方から、大きい亀裂が。ビルが傾いて、みんな外に逃げてきてる。――でも大丈夫。お姉ちゃんが、駅員さんの制服着て、みんなを外堀の公園の方に案内してる。篠宮先生は、けがした人を診てる。三枝さんも、自分もけが人なのに、何か手伝ってる』
「……お母さんは」
『ここにいるよ。いま、わたしの隣にいる』
電話の声が、変わった。
『――澪』
「……お母さん」
『こっちは大丈夫。みんな、ちゃんと生きてる。――だから、澪は、澪のことをしなさい』
母の声は、一度も震えなかった。
『それと。真帆ちゃんが、もうひとつだけって』
『――澪! 沖縄! 忘れてないよね!!』
叫ぶような真帆の声を最後に、電話は切れた。
わたしは、笑った。笑うつもりはなかったのに、笑っていた。それから、泣いていた。
遠くで、また低い音がした。ひとつ。ふたつ。
「……第九、第十」
久我さんが、スマートフォンの画面を見ながら、つぶやいた。写真に撮っておいた、あの赤い十三の丸の地図。その丸を、久我さんは音がするたびに、指で一つずつ黒く塗りつぶしていた。
十三のうち、閉じたのは、上野と、ここ大手町だけ。それ以外は、もう、ほとんど黒い。
◇
封石が、足もとから突き上げられるように、大きく揺れた。
空洞の底から、何かが上がってくる。手だった。帝都の大通りほどもある、巨大な黒い指が、空洞の壁を伝って、第三の封に向かって、ゆっくりと伸びてくる。
「――澪、下がれ」
久我さんが、わたしの前に立った。カンテラを掲げて。
ヒビの入ったガラスの奥で、小さな光が、必死に揺れている。その光に触れた黒い指の先が、わずかにたじろいだ。
でも、それだけだった。
指が、カンテラごと久我さんを弾き飛ばした。久我さんの体が壁に叩きつけられて、カンテラが床に落ちた。
ガラスが、砕けた。
「――久我さん!」
駆け寄ろうとした、そのときだった。
砕けたカンテラの中から、小さな光が、ふわりと浮かび上がった。
火ではなかった。油も芯もないのに、ゆらゆらと揺れる、穏やかな白い光。
わたしの灯と、同じ色だった。
光は、迷うように少しだけ空中を漂ってから、まっすぐにわたしの方へ飛んできた。そして、胸の真ん中に、そっと吸い込まれた。
あたたかかった。
上野の封石から滴ひとつぶんの灯が戻ってきたときと同じ。でも、それよりずっと大きくて、ずっと古い。遥か遠くから、長い長い時間をかけて、ようやく帰ってきたもののような、あたたかさだった。
――灯子さん。
なぜか、そうわかった。
昭和二年。上野の掘削現場で第一の封をした少女が、封を守る保線の男に、自分の灯を少しだけ分けて、カンテラにともしたのだ。いつか生まれる、次の守り手のために。久我の家は、百年、その灯を守り継いできたのだ。
――じいさん。守り手、来たぞ。
谷中の墓の前で、久我さんがつぶやいた言葉が、胸の奥で、あたたかく響いた。
「……澪」
壁にもたれた久我さんが、額の血を拭いながら、わたしを見ていた。
「それ……じいさんのカンテラの……」
「はい。灯子さんの灯です。――少しだけ、長く生きられそうです」
遠くで、また低い音がした。ひとつ。ふたつ。
第十一。第十二。
残るのは、第十三と、ここ、第三だけだった。
巨大な黒い指が、また第三の封石へと伸びてくる。封石のヒビが、端から広がっていく。ここでいくら灯を流し込んでも、底から伸びてくるあの手があるかぎり、いつかは割られる。
封を守っているだけでは、終わらない。
――地喰を討てば、喰われた灯は還る。
日誌の最後のページの、久我さんのおじいさんの字。
わたしは、空洞の縁に立って、下を見下ろした。あの目が、まだそこにある。
「……久我さん。終点まで、連れていってくれますか」
久我さんは、砕けたカンテラを拾い上げた。もう光っていない、ただの古い真鍮のかたまりを。それを、大事そうにジャンパーの胸ポケットにしまった。
「――ああ。親父と約束したからな」
そのときだった。
空洞の底の方から、音が聞こえてきた。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
線路の継ぎ目を車輪が越えていく、あの音。
空洞の壁に張り巡らされた線路のひとつを、何かが、螺旋を描いて上がってくる。小さな前照灯が、ひとつ。
黄色い、古い車両だった。
終電で乗った銀座線と、同じ色。でも、もっとずっと古い。木の窓枠。丸い屋根。百年前の写真でしか見たことのない、この国で最初の地下鉄の車両。
車両は、わたしたちの足もとの、空洞の縁にそっと止まった。扉が、音もなく開く。
先頭の行先表示には、古い書体で、ただ二文字だけが書かれていた。
『終点』




