第20話 終点
車内は、あたたかかった。
木の床。真鍮のつり革。天井の丸い電灯が、やわらかな橙色の光を落としている。外の暗闇が嘘のように、穏やかな空気だった。
乗客は、ひとりだけいた。
車両のいちばん奥の席に、着物姿の少女が座っていた。十五、六歳だろうか。細い肩。まっすぐな目。そして――その髪の半分が、白く光っていた。
篠宮先生の写真の、あの少女だった。
「……灯子さん」
少女は、わたしを見て、やわらかく笑った。それから、わたしの銀色の髪と、自分の白い髪を、交互に指さして、少しいたずらっぽく首をかしげた。おそろいね、と、言っているみたいに。
「――遅くなって、ごめんね」
声は、耳ではなく、胸の奥の、あのあたたかい光のところから聞こえた。
「百年かかって、ようやくここまで来たの。わたしには、底までは行けなかった。封をするのが、せいいっぱいだった。――ここから先は、あなたの番ね」
少女は、立ち上がって、久我さんの前で一度だけ、深くお辞儀をした。久我さんの胸ポケットの、砕けたカンテラに向かって。
そして、橙色の光の中に溶けるように、いなくなった。
久我さんは、しばらく、何もない席を見つめていた。
「……じいさんに、見せてやりたかったな」
◇
電車は、螺旋を描いて下りていった。
窓の外を、いろいろなものが通り過ぎていく。
崩れて焦げた街。大正の大震災のあとの帝都だと、わかった。防空頭巾をかぶった人たちが、駅のホームに身を寄せ合っている。空襲の夜の地下鉄だ。何十年も前の、ある朝の通勤ラッシュ。ある夜の、終電の窓。
「……地喰の腹の中だ」
久我さんが、低く言った。
「この土の上で死んだものは、みんな地喰の腹に沈んでくる。――親父が言ってたことは、半分だけ本当だったんだな」
沈んでいるのは、人ではなかった。記憶のようなものだった。この帝都の地下で、百年のあいだに誰かが感じた恐れや、疲れや、寂しさ。そういうものが、底に溜まって、地喰の血と肉になっているのだ。
そして――
わたしは、息を止めた。
窓の外の暗闇に、ひとつの窓が浮かんでいた。
病室の窓だった。白い窓枠。半分だけ引かれたカーテン。窓の内側には、病室のベッドがあって、その上に、痩せた女の子が座っていた。
顔色の悪い、小さな顔。病院の寝間着。細い手首に、点滴の管。
その女の子は、窓の外をじっと見ていた。
――わたしだった。
十二歳から十七歳まで。あの窓から、地下鉄の入口を、ただ見つめていた、前の人生のわたし。
小さな女の子の形をして、病室の窓の前に座ってる。――大手町で、浩二さんはそう言った。嘘だと思った。でも、嘘じゃなかった。
窓は、電車と一緒に、ゆっくりと底へ下りていく。まるで、わたしたちを案内するように。
窓の中の女の子が、ふいに、こちらを向いた。
そして、笑った。前の人生で、わたしが一度もしたことのない、ひどくうれしそうな顔で。
◇
ガタン、と、最後に一度だけ揺れて、電車が止まった。
扉が開く。
そこは、ホームだった。
黒い、どこまでも続くホーム。柱も、天井も、床のタイルも、すべてが、ゆっくりと脈打つ暗闇でできていた。線路は、そこで終わっていた。車止めもなく、赤い灯りもなく、ただ、ぷつりと。
終点だった。
ホームの真ん中に、あの病室があった。
壁も天井もない。ただ、白いベッドと、点滴のスタンドと、窓枠だけが、暗闇の中に置かれている。その窓枠の向こうには――あの巨大な目が、ゆっくりと瞬きをしていた。
窓の外の景色のように。
ベッドの上に、女の子が座っていた。
もう、小さな女の子ではなかった。十七歳の、痩せた少女。前の人生の、最後の冬の、わたし。
「――やっと来たね」
その声を聞いて、背中が冷たくなった。
終電の車内で。上野の引き上げ線で。新橋の幻のホームで。黒いものたちの奥から響いていた、何重にも重なった、あの声。そのいちばん底に、ずっと、この声が混じっていたのだ。
わたしの、前の声が。
「……どうして」
「喰われたんだもの。生まれたばかりのときに、半分」
少女は、自分の胸に手を当てた。そこには、白い光が、わたしの灯と同じ光が、でも何重にも黒いものに包まれて、にぶく点っていた。
「半分の灯は、この腹の底で、十七年、ずっと窓の外を見てた。病室の窓から、地下鉄の入口を見てたように。――あの入口の下に行きたい。終点まで行きたい。外に出たい。そう願いながら」
少女の後ろで、巨大な目が、ゆっくりと瞬いた。
「その願いが、この子を起こしたの。この子は、百年眠るはずだった。でも、わたしの願いを喰って、ようやく上に行きたくなったんだって」
「――地喰は、お前だったのか」
久我さんが、かすれた声で言った。
少女は、首を横に振った。
「わたしは、この子の心臓。この子は、わたしの体。――もう、どっちがどっちなのか、わからない」
少女は、わたしを見た。まっすぐに。
「ねえ。あなたがわたしを斬れば、半分の灯は、あなたに還る。この子は心臓をなくして、また百年、眠る。あなたは十七を越えて、生きられる」
「……そうしたら、あなたは」
「消えるよ。十二歳から十七歳まで、あの窓から見てた五年間も。そのあとの、底で窓の外を見てた十七年間も。全部」
少女は、笑った。さっき、窓の中で笑ったのと同じ、ひどくうれしそうな顔で。
「――それでも、いいんだ。だって、あなたは来てくれたもの。自分の足で、終点まで」
そのときだった。
はるか頭上から、音が降ってきた。
低く、重く、何かが砕け散る音。空洞全体が、大きく、ゆっくりと、揺れた。
「……第三だ」
久我さんが、頭上を見上げた。その顔から、血の気が引いていた。
「大手町の封が――扉が、割れた」
少女の後ろで、巨大な目が、大きく、大きく、見開かれた。
これまでじっとこちらを見上げていた瞳が、はじめて、上を向いた。帝都の地上を。母と、真帆と、柚希さんと、篠宮先生と、三枝さんと、どこかで影を引き連れて走っている浩二さんのいる、あの街を。
空洞の底から、何かが、せり上がりはじめた。
「――澪。時間がない」
久我さんの声が、遠くに聞こえた。
わたしは、右手を差し出した。灯子さんから受け取った光と、わたしの半分の灯が、手のひらでひとつになって、白く、強く、燃え上がる。
刃にすれば、終わる。半分の灯は還ってくる。わたしは生きられる。帝都も助かる。
そして、この子は消える。
十七年前、あの窓から、ただ見ていることしかできなかった、わたしが。
「……ねえ」
少女が、小さく首をかしげた。
「終点には、何があった?」
わたしは、答えた。
「――何もなかったよ。ただ、線路が終わってただけだった」
少女の目が、少しだけ、揺れた。
「でもね」
わたしは、一歩、前へ踏み出した。
刃には、しなかった。
――わたしは、わたしに向かって、手を伸ばした。




