第8話 十三の陣
久我さんは、メッセージの画面を長いあいだ見つめていた。
月曜日の放課後。神田の古い喫茶店の、いちばん奥の席。カウンターの向こうで、白髪のマスターが黙ってサイフォンを照らしている。
「……番号は、昨日のうちに解約されてる。たぶん使い捨ての回線だ。追いかけようがない」
「真帆に何かあったら、わたし――」
「わかってる」
久我さんはスマートフォンをわたしに返して、テーブルの上に一枚の紙を広げた。帝都の地下鉄の路線図だった。どこの駅にも貼ってある、色とりどりの線が絡み合ったあの図。
その上に、赤いペンで十三の丸が描き込まれていた。
「日誌の後ろの方に、封の場所が全部書いてあった。古い駅名や、今はない地名もあったから、一晩かかったけどな」
上野。新橋。それから――赤坂見附、大手町、飯田橋、市ヶ谷、永田町……。
十三の丸を結ぶように、久我さんは赤い線を引いていた。地下鉄の路線をたどって。すると、その線は、いびつな星のような形を描いて、ひとつの円を取り囲んでいた。
その円の真ん中にあるのは――帝都の中心。緑に塗られた、広い広い空白だった。
「陣だ」
久我さんは、赤い円をペンの先でなぞった。
「日誌にはこうある。『十三ノ封コトゴトク割レシ時、地喰、帝都ノ地ヲ喰ラフ』。――地喰というのが、あいつらの親玉の名前らしい」
「地を、喰う……」
「大正の大震災があっただろう。地下鉄が開通する四年前だ。日誌によれば、あのとき地喰は一度目を覚ましかけた。それを封じるために、地下鉄の線路そのものを封印の紐にしたんだ。線路を伸ばすたびに、封をひとつずつ増やして」
気の遠くなるような話だった。でも、笑う気にはなれなかった。終電の窓の外で、何十もの目が開いたあの光景を、わたしはもう知っている。
「それと、もうひとつわかったことがある」
久我さんは、上野の丸と、新橋の丸を、交互に指さした。
「封には順番がある。一から十三まで。地喰は、一から順にしか割れない。――だから、上野を閉じられたあいつらは、焦ってるはずだ」
「……だから、人間の手を借りて、新橋の封石を外そうとしてる」
「たぶんな。一を飛ばして二を外せれば、順番の縛りを押し切れるのかもしれん」
久我さんは、赤いペンのキャップを閉めた。
「だから、あの脅迫は『近づくな』なんだ。君と俺が新橋に近づくと、あちらは困る。――しばらく、新橋には俺ひとりで行く」
「約束の一つ目、ひとりでは潜らない。ですよね」
「……それは、君に対しての約束だ」
「ずるいです」
久我さんは、少しだけ困った顔で、冷めたコーヒーを飲んだ。
◇
水曜日、わたしは母と一緒に大学病院へ行った。
採血、心電図、レントゲン。前の人生で飽きるほど繰り返したことを、また一つずつこなしていく。最後に、診察室に呼ばれた。
「お母さん、少しだけ、白峰さんと二人でお話しさせてもらえますか」
篠宮先生は穏やかな声でそう言って、母を廊下へ送り出した。
ドアが閉まる。先生は、検査結果の紙を伏せて、わたしに向き合った。
「数字の上では、先日とほとんど変わりません。ただ――」
先生の目が、わたしのこめかみに止まった。銀色の髪に。
「美容院では、ないでしょう」
わたしは、答えなかった。
先生は、机の引き出しから一枚の写真を取り出して、わたしの前に置いた。色あせた、白黒の写真だった。
古い病院の廊下に、白衣を着た若い医師が立っている。その隣に、着物姿の少女がいた。十五、六歳だろうか。細い肩。まっすぐな目。そして――その髪の半分が、白く光っていた。
写真の余白に、墨で『昭和二年秋』とあった。
「私の祖父です。祖父も、医者でした」
篠宮先生は、写真の少女をじっと見つめた。
「祖父は、この子の主治医だったそうです。原因のわからない衰弱。体の中の何かが、少しずつ燃えていくような病。――祖父はそれを、『灯の病』と呼んでいました」
「……この人は、どうなったんですか」
自分の声が、少し震えていた。
篠宮先生は、しばらく黙っていた。それから、写真をそっと裏返した。裏にも、同じ墨の文字があった。
『灯子、封ヲ閉ジ、生キル』
「祖父の日記によれば、彼女はその後、八十まで生きたそうです」
胸の奥で、上野の封石から戻ってきたあの小さな灯が、ぽつんと揺れた気がした。
「先生は……何を、どこまで知っているんですか」
「私は、医者です。それ以上のものにはなれません」
篠宮先生は、写真を引き出しに戻した。
「ただ、医者として一つだけ言わせてください。――無理をしないで。あなたの灯は、祖父の写真の少女より、ずっと細い」
先生の声は、穏やかだった。でも、その目の奥にあるものが、心配なのか、もっと別の何かなのか。わたしには、読み取れなかった。
◇
その夜、十時を過ぎたころだった。
真帆から、電話がかかってきた。メッセージではなく、電話。それだけで、嫌な予感がした。
『澪、ごめん、こんな時間に。――お姉ちゃん、そっちに行ってないよね?』
「……柚希さん? 来てないけど」
『だよね。――帰ってこないの。バイト先にも電話したんだけど、今日はシフト入ってないって。携帯もつながらないし、お母さんが……』
真帆の声が、途中で震えて途切れた。いつも大きな声で笑う真帆の、聞いたことのない声だった。
「……真帆、大丈夫。大丈夫だから」
何の根拠もない言葉を繰り返しながら、わたしはもう片方の手でコートをつかんでいた。
真帆との電話を切った、その直後。久我さんからの着信が入った。
『今、新橋の幻のホームにいる』
彼の声は、息が上がっていた。
『封石に、文字が出てる。「十三ノ二 割ル」。――それと』
電話の向こうで、久我さんが、唾を飲み込む音が聞こえた。
『封石の前に、駅員の制帽が落ちてる。――女物の制帽だ』




