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第7話 幻のホーム

「――篠宮、と言ったか」

 日曜日の朝。新橋駅前のSL広場で、久我さんは缶コーヒーを握ったまま動かなくなった。

 わたしは昨日のことを全部話した。真帆の姉の柚希さんが、駅でバイトをしていて、上野の光の噂を知っていたこと。主治医の篠宮先生が、検査もせずに「灯が細くなっている」と言ったこと。

「……古い名前だ。日誌にも一度だけ出てくる。『篠宮医師、少女ヲ診ル』。昭和二年のところだ」

「それって……最初の守り手のことですか」

「たぶんな。もちろん、今の先生とは別人だ。百年も前の話だからな。――子孫かもしれないし、ただの偶然かもしれない」

 久我さんは缶コーヒーを飲み干して、ゴミ箱に放り込んだ。

「どっちにしろ、今は先にやることがある」

 彼がジャンパーのポケットから取り出したのは、二枚のチケットだった。『帝都交通 新橋駅 幻のホーム見学会』。

「銀座線の新橋駅には、今は使われてないホームがもうひとつある。昭和十四年にできて、たった八か月で使われなくなったホームだ。表向きには、二つの会社が合流して不要になった、ということになってる」

「表向きには、ですか」

「日誌にはこう書いてある。『新橋ノホーム、八月ニシテ閉ヅ。第二ノ封ヲ守ルタメ』」

 久我さんは、チケットの一枚をわたしに渡した。

「一年に数回だけ、一般公開される。たまたま今日がその日だ。昼間だし、人も大勢いる。――封の様子を見るだけだ。振るなよ」

「約束の二つ目ですね」

「よく覚えてるじゃないか」

◇

 見学会の受付は、駅の奥の関係者用通路の入り口にあった。

 二十人ほどの参加者が列を作っている。カメラを提げた鉄道ファンらしい男の人たち。子どもを連れた家族。年配の夫婦。

「それでは、こちらへどうぞ。足もとにお気をつけください」

 聞き覚えのある声だった。

 列の先頭で、紺色の制服を着た女の人が、手を上げていた。背の高い、真帆と同じ丸い目の――

「……柚希さん」

 柚希さんは、わたしに気づいて、一瞬だけ目を見開いた。それから、他の参加者に向けるのと同じ笑顔で、小さく会釈した。

 久我さんが、小声で訊いた。

「……あれが、真帆ちゃんの姉さんか」

「はい」

「観光案内のバイトが、見学会の引率までやるもんなのか――」

 久我さんはそれ以上、何も言わなかった。

 コンクリートの通路を抜け、狭い階段を下りる。古い鉄の扉が開かれ、その先に、時間が止まったような場所があった。

 白いタイルの壁。古い書体の駅名標。弧を描く天井に、裸電球がいくつかだけ灯っている。線路はない。そこはもう、電車の来ないホームだった。

「わあ……」

 参加者たちが声をもらし、いっせいにカメラを構える。柚希さんが、よく通る声でホームの歴史を説明しはじめた。

 でも、わたしは、まったく別のことに気づいていた。

 ――染みが、ない。

 この一週間、どのトンネルにも、どの駅にも、必ずどこかに小さな黒い染みがあった。それがここには、ひとつもない。まるで、誰かが丁寧に拭い取ったように。

 久我さんを見ると、彼もジャンパーの内側でカンテラを握りながら、難しい顔で壁を見ていた。

「……きれいすぎる」

「はい」

 わたしたちは、列のいちばん後ろについて、そっとホームの奥へと歩いていった。

 ホームのいちばん奥は、ベニヤ板の仕切りでふさがれていた。『立入禁止』の黄色い紙が貼られている。

 その仕切りの、いちばん下の隙間から、かすかに風が流れてきていた。生あたたかい、あの風が。

 久我さんが、参加者たちの視線が駅名標に集まっているのを確かめてから、仕切りの端をそっと指でずらした。ベニヤ板は、釘が抜かれていて、あっけなく動いた。

 奥は、狭い空間だった。タイルが剥がれたコンクリートの壁。その壁の、ちょうどわたしの胸の高さに、上野で見たのと同じ丸い封石が埋め込まれていた。

 ヒビは、入っていない。

 でも、封石の周りのコンクリートに、細かい傷がぐるりとついていた。封石を壁から引き剥がそうとしたような、金属の道具の跡。削られた切り口が、まだ白い。

「……新しい。せいぜいこの一週間だ」

 久我さんが、傷に指を当ててつぶやいた。

「魔物は、道具なんか使わない。――人間だ。誰かが、封石を外そうとしてる」

 背中に、冷たいものが走った。

 上野の封は、魔物が内側から割ろうとしていた。でもここでは、誰かが外側から、人間の手で、封を外そうとしている。そして、それを誰にも気づかれないように、染みまできれいに拭い取っている。

 明け方の上野駅で見た、制服の駅員の後ろ姿が、頭をかすめた。

「――そこは、立入禁止ですよ」

 びくりとして振り返る。

 ベニヤ板の隙間に、柚希さんが立っていた。

◇

「……すみません。風が入ってきてたので、気になって」

 久我さんが、すっとわたしの前に出た。柚希さんの目が、彼の顔と、その後ろの封石とを、順番に見た。

 しばらく、誰もしゃべらなかった。ホームの方から、参加者たちのにぎやかな声と、シャッター音が聞こえてくる。

「……ここ、昔は『封じホーム』って呼ばれてたんですって」

 柚希さんは、ひとりごとのように言った。

「祖母が、戦争の前にこの駅で切符を切ってたの。小さいころ、よく聞かされた。――あの壁の丸い石には、絶対に触っちゃいけないって」

「……それを、どうして今、私たちに」

 わたしが訊くと、柚希さんは、わたしの銀色の髪をまっすぐに見た。

「澪ちゃん。あなたが何をしてるのか、わたしは知らない。知りたいとも思わない」

 穏やかな声だった。でも、その奥に、張り詰めたものがあった。

「ただ、ひとつだけお願い。――真帆を、巻き込まないで」

 柚希さんはそれだけ言うと、ベニヤ板を元の位置に戻して、参加者たちの方へ戻っていった。「それでは、続いてこちらの駅名標をご覧ください」という明るい声が、少しして響いてきた。

 久我さんが、低くつぶやいた。

「……味方なのか、敵なのか。全然わからん」

 わたしにも、わからなかった。ただ、「真帆を巻き込まないで」と言ったときの柚希さんの声だけは、本当のものに聞こえた。

◇

 その夜。

 自分の部屋で、真帆から届いた写真シールの画像を眺めているときだった。

 スマートフォンが、短く震えた。

 知らない番号からのメッセージだった。

 『第二の封に、近づくな』

 指が、動かなくなった。

 もう一通。

 『次に近づいたら、友だちが終電に乗ることになる』

 画面の上で、真帆が書いた『ずっと友だち』の文字が、わたしの震える指の下で、にじんで見えた。

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