第6話 来年の夏の話
「澪、それメッシュ? いつ入れたの!」
土曜日の午前。待ち合わせの渋谷駅で、真帆はわたしの顔を見るなり叫んだ。
こめかみの銀色の髪。今朝は隠し忘れていた。
「えっと……ちょっと、気分転換で」
「えー、いい! めちゃくちゃ似合う。澪ってそういうの絶対やらないと思ってた」
真帆は、本当にうれしそうに笑った。それを見ていると、代償のしるしでさえ、何かきれいなもののような気がしてくるから不思議だ。
今日は、真帆と前から約束していた日だった。「澪の初めて」を集める日。この人生でわたしがまだしていないことを、真帆が一日で全部やらせてくれるらしい。
「じゃあまずは――地下鉄! 澪、乗ったことないんでしょ」
「……うん」
嘘をついた。この一週間で、二度も乗った。終電と、終電のその後に。
でも、こういう地下鉄には、乗ったことがなかった。明るくて、人がいっぱいで、誰かの笑い声がして、窓の外の暗闇には何もいない。
――いや。
いないわけではなかった。トンネルの灯りが通り過ぎるたびに、壁のあちこちに、小さな黒い染みが見える。磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、どれも同じ方向へ、じわりと伸びている。
帝都の中心の方へ。
「澪? どうしたの、怖い顔して」
「……なんでもない。地下鉄って、窓の外が真っ暗なんだなって」
「そりゃそうだよ、地下なんだから。澪ってほんと変わってる」
真帆は、いつものように笑った。
◇
それからの半日は、夢のように過ぎた。
初めての写真シール。落書きのペンで、真帆はわたしたちの顔の横に『ずっと友だち』と書いた。初めてのクレープ。甘すぎて、半分でおなかがいっぱいになった。初めての古着屋。真帆が選んだ黄色いカーディガンを、わたしは買った。
午後三時。表参道のカフェで、真帆が「あ、来た来た」と手を振った。
入り口から、背の高い女の人が入ってきた。真帆と同じ丸い目。でも真帆よりずっと落ち着いた空気をまとっている。
「お姉ちゃんの柚希。大学一年。バイト帰りに寄ってもらったの」
「はじめまして。いつも真帆がお世話になってます」
柚希さんは、ものやわらかに頭を下げた。その肩から下げたトートバッグの中に、紺色の布がたたまれているのが見えた。帝都交通のマークが、小さく刺繍されている。
「お姉ちゃん、駅でバイトしてるの。案内係だっけ?」
「そう。観光客の案内とか、忘れ物の受付とか。上野と浅草が多いかな」
上野と、浅草。
スプーンを持つ指が、少しだけ硬くなった。
「そういえばさ」
柚希さんは、アイスティーの氷をストローでかき混ぜながら、何気ない調子で言った。
「最近、駅員のあいだで変な噂があるの。終電のあとの上野のトンネルで、真っ白な光が見えたって。保守の人は何も報告してないんだけどね」
そして、ちらりと、わたしのこめかみを見た。
銀色の髪を。
「――きれいな色ね。どこで入れたの?」
「……近所の、美容院です」
「そう。今度教えて」
柚希さんは、もう一度やわらかく笑った。その笑顔は真帆によく似ていた。ただ、目だけが、少しも笑っていないように見えた。
気のせいだと、思いたかった。
◇
夕方、真帆は「送ってく」と言って、わたしの家の近くまでついてきた。
隅田川の堤防を、ふたりで歩く。川面が夕日を細かく砕いて、遊覚船がゆっくりと下っていく。
一日じゅうよくしゃべっていた真帆が、しばらく黙っていた。それから、川のほうを見たまま、こう言った。
「澪さ、なんか隠してるでしょ」
足が、止まった。
「この前からずっと顔色悪いし、屋上で来年の話したとき、すごい泣きそうな顔してた。――あと、その髪。美容院じゃないでしょ。根元から白いもん」
わたしは、何も言えなかった。
言ってしまいたかった。余命のことも、地下のことも、全部。この子になら、言ってもいい気がした。
でも、言ったら、真帆はもう、今日みたいには笑ってくれない。沖縄の話も、もうしてくれない。それが、いちばん怖かった。
「……ごめん。まだ、言えない」
やっとそれだけ言うと、真帆はふっと息を吐いて、こちらを向いた。
「いいよ。言いたくなったら言って。わたし、待つの得意だから」
「……真帆、ぜんぜん待つの得意じゃないと思う」
「はあ? 得意だし。カップ麺も三分待てるし」
「いつも二分で開けてるよね」
真帆が吹き出した。つられて、わたしも笑った。川風が、ふたりの笑い声をさらっていった。
別れ際、真帆はもう一度振り返って、大きく手を振った。
「来年の夏! 沖縄! 約束だからね!」
わたしは手を振り返した。答えは、声にならなかった。
真帆の背中が角を曲がって見えなくなってから、わたしは堤防にしゃがみこんだ。黄色いカーディガンの入った紙袋を抱きしめて、声を殺して泣いた。
来年の夏まで、あと九か月。
わたしの命は、あと十か月と、少し。
もう一太刀も振らなければ、間に合う。でも、封はまだ十二残っている。
◇
家に帰ると、母が台所から顔を出した。
「お帰り。あのね、さっき病院から電話があったの。篠宮先生から。澪と直接話したいって」
篠宮先生。あの日、診察室で余命を告げた医師だ。白髪まじりの、穏やかな声の人。
母から受け取った子機を耳に当てると、あの穏やかな声が聞こえてきた。
『白峰さん。その後、体調はどうですか』
「……大丈夫です。少し、咳が出るくらいで」
『そうですか。――来週、もう一度検査をさせてください。それと』
先生は、少し間を置いた。
『最近、無理をしていませんか。――灯が、また少し細くなっていますよ』
子機を握る手が、冷たくなった。
まだ検査もしていない。あの日から、一度も病院には行っていない。




