第5話 第一の封
影たちが、いっせいに身を低くした。
野良犬のような形をしたもの。地を這う蜘蛛のようなもの。形の定まらない、ただの暗闇の塊。数えきれない。十や二十ではない。
一太刀で、ひと月。
全部を斬っていたら、わたしはここで死ぬ。
「――振るな!」
久我さんが叫んだ。
「そいつらは雑魚だ、本体じゃない。光を掲げろ。こっちへ来い!」
掲げる。
わたしは、刃を振りあげるのではなく、松明をかざすように頭上へ差し上げた。
光が、広がった。
トンネルの壁が、天井が、線路の砂利が、白く浮かび上がる。影たちが鳴き声のような音を立てて、ざあっと後ろへ退いた。光の届くところには、一匹も入ってこない。
――振らなければ、削れない。
それがわかった。胸の熱は、穏やかなままだ。灯をともしているだけなら、命は燃えない。燃えるのは、刃として振るうときだけなのだ。
光を掲げたまま、わたしは一歩ずつ久我さんのもとへ近づいた。影たちが、波が引くように道を開けていく。
「……無茶苦茶だ、君は」
久我さんは、額の血を手の甲で拭いながら立ち上がった。口調は怒っていたけれど、その目は、どこかほっとしているように見えた。
「あとでいくらでも思ってください。――封は、どこですか」
久我さんは、カンテラで引き上げ線のいちばん奥を照らした。
◇
行き止まりのコンクリートの壁に、大きな黒い染みが広がっていた。
いや、染みではない。それはゆっくりと渦を巻いていた。壁に開いた、底のない穴。その中心に、大人の手のひらほどの丸い石が埋め込まれている。古い彫りの文字。そして、その石の全体に、稲妻のようなヒビが走っていた。
石のすぐ上に、黒く滴るような文字が浮かんでいた。
『十三ノ一 割ル』
「これが、第一の封石だ。日誌にあった図と同じ形だ」
久我さんが、破れかけたお札を差し出した。古い和紙に、朱で何かが書かれている。
「これを石に貼り直そうとした。そしたら、あいつらに弾き飛ばされた。――たぶん、お札だけじゃ足りないんだ」
「灯が、必要なんですね」
久我さんは、答えなかった。それが答えだった。
わたしが壁へ一歩踏み出した、そのときだった。
渦の中から、腕が伸びてきた。
指先が床につくほど長い、左腕だけの影。右の肩から先は、砂のように崩れたままだ。
「――また会ったな、灯の娘」
頭の内側に、あの声が響いた。終電の車内で聞いた声。
「右腕の礼をしに来た。――それとも、もう一本もくれてやろうか」
長い左腕が、弓のようにしなった。
光を掲げているだけでは、これは止まらない。わたしはそれを、体の奥で知っていた。
刃を、下ろした。右足を半歩引き、刃先を相手の胸に向ける。
「久我さん。わたしがあれを斬ったら、すぐにお札を」
「……何太刀いる」
「わかりません。でも、できるだけ少なくします」
影が、動いた。
長い腕が、真上から振り下ろされる。
わたしは刃を横にして受けた。光と闇がぶつかり、火花のようなものが飛び散る。重い。膝が折れそうになる。
受けただけでは、命は削れない。でも、このままでは押しつぶされる。
――一太刀で、決める。
前の人生よりもっと前の、どこか遠いところから、そう教える声がした気がした。振るなら、迷うな。一太刀に、ひと月の命を、まるごと込めろ。
わたしは刃を斜めに傾け、影の腕を滑らせた。重さがふっと抜ける。影の体が、前に波打つように崩れる。
その胸の真ん中に、渦のいちばん濃いところがあった。
踏み込んだ。
下から上へ。光が一筋の線になって、暗闇を縦に貫いた。
胸の奥で、何かがごっそりと削り取られる。それがわかっていても、刃を止めなかった。
影は、声を上げなかった。ただ、縦に裂けた闇のあいだから、ゆっくりと砂がこぼれていく。
「――なるほど」
崩れながら、それは笑ったように聞こえた。
「だが、封は十三。俺のようなものは、地の底にいくらでもいる。――お前の命は、あと幾月だ?」
最後の砂が、線路の砂利に落ちて消えた。
「久我さん!」
叫ぶより早く、久我さんは壁へ飛びついていた。渦の勢いが弱まった一瞬、封石にお札を叩きつけるように貼る。
足りない。お札の朱の文字が、闇に飲まれて薄れていく。
わたしは刃を消し、空っぽになった右手を、お札の上から封石に重ねた。
胸に残っていた熱を、そっと流しこむ。刃にするのではなく、ただ、灯を分けるように。
お札の文字が、赤く息を吹き返した。
封石のヒビが、端から少しずつふさがっていく。渦が細くなり、壁の中へ吸いこまれていく。『十三ノ一 割ル』の文字が、水に溶ける墨のようににじんで、消えた。
その瞬間だった。
封石に重ねた手のひらから、ほんの少しだけ、あたたかいものが戻ってきた。
滴ひとつほどの、小さな灯。それが腕を伝って、胸の奥にそっと落ちた。
――十三ノ封コトゴトク閉ジ直サバ、灯ハ守リ手ニ還ル。
嘘じゃなかったんだ。
◇
地上に出ると、空が白みはじめていた。
上野公園の立ち木の向こうで、鳥が鳴いている。始発の電車の音が、地下からかすかに響いてきた。何事もなかったような、いつもの朝だった。
久我さんは、駅前のガードレールにもたれて、長いあいだ黙っていた。
「……一太刀だったな」
「はい」
「また、ひと月だ」
「でも、少し戻ってきました。本当に、少しだけですけど」
久我さんは、わたしの顔をじっと見た。それから、こめかみのあたりに目をやって、少しだけ眉をゆるめた。
あとで鏡を見て知った。銀色の髪は、一房から二房に増えていた。でも、そのうちの一房の根元だけが、ほんのわずか、黒く戻りかけていたのだ。
「……わかった」
久我さんは、観念したように息を吐いた。
「一緒にやろう。ただし、条件がある。一つ、ひとりでは絶対に潜らない。二つ、振る前に必ず俺に言う。三つ、――親御さんには、いつかちゃんと話す」
「……三つ目は、一番難しいです」
「だから三つ目なんだ」
わたしは、笑った。久我さんも、ちょっとだけ笑った。はじめて見る、この人の笑った顔だった。
――そのとき。
駅の出入口のシャッターが、始発に合わせて、がらがらと音を立てて上がっていった。
その奥の、階段のいちばん上に、ひとりの駅員が立っていた。
制服と制帽。帽子のつばが深くて、顔は見えない。ただ、その人は空も乗客も見ずに、まっすぐわたしたちを見つめていた。
瞬きをひとつしたあいだに、その姿はなかった。
後で久我さんに訊いた。あの時間、上野駅にあの身なりの駅員は、ひとりも勤務していなかったという。




