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第4話 一太刀、ひと月

朝、髪をとかしていて気づいた。

 右のこめかみのあたりに、一房だけ白い髪があった。白髪というより、銀色だ。洗面所の蛍光灯の下で、そこだけがかすかに光っているように見えた。

 昨日までは、なかった。

 わたしはその一房を指でつまみ、しばらく眺めていた。それから、黒い髪の内側にそっと隠した。

◇

「澪、顔色悪いよ。また貧血?」

 昼休みの屋上。日だまりに座った浅野真帆が、メロンパンをかじりながらわたしの顔をのぞきこんだ。

 真帆は中学からの友だちだ。声が大きくて、よく笑って、何でも感動するわたしを「変わってる」と最初に言った子だ。そして、その変わったところをいちばん面白がってくれた子でもある。

「……ちょっと寝不足なだけ」

「ふーん。あ、そうだ。来年の夏休みさ、一緒に沖縄行かない?」

 わたしは、お弁当の卵焼きを口に運ぶ手を止めた。

「お姉ちゃんが大学入ったら、親が『姉妹で旅行しなさい』ってうるさいの。でもお姉ちゃんと二人とか無理だし。澪が来てくれたら、絶対楽しい。澪、海入ったことないって言ってたよね。めちゃくちゃ感動しそう」

 来年の夏。

 そのころ、わたしはまだいるのだろうか。

「……うん。行きたい」

 そう答えるのが、せいいっぱいだった。真帆は「やった」と両手を上げて、メロンパンのかけらをそこらじゅうに散らかした。

 屋上のフェンスの向こうに、帝都の街が広がっている。その足もとの地下で、今この瞬間も、黒い染みが広がっている。

 真帆は、何も知らない。

◇

 放課後、上野公園の不忍池のほとりで、久我さんはベンチに座っていた。

 作業着ではなく、くたびれたジャンパー姿だ。膝の上には、表紙の擦り切れた分厚い帳面がのっていた。

「じいさんの保線日誌だ。実家の押し入れから出てきた。じいさんのことも、じいさんの親父のことも書いてある」

 最初のページには、墨で『昭和二年 上野一浅草間 開通』と書かれていた。

「この国で最初の地下鉄が開通した年だ。――ここを見ろ」

 久我さんが開いたページには、線路の図と、その上に描かれた丸い印があった。印の横に、小さな文字で『第一の封』。

「開通の前の年、上野の掘削現場で何かが出たらしい。作業員が何人も消えて、工事が止まった。そのとき、ひとりの少女が光の刃でそれを地の底へ押し戻して、封をした。――そう書いてある」

「……灯の守り手」

「ああ。それから――」

 久我さんは少しためらってから、次のページを開いた。そこには、他のページよりも乱れた筆跡で、短い文が書きつけられていた。

 『灯ハ命ヲ燃ヤス。一太刀ニテ、一月』

 一太刀で、ひと月。

 わたしは昨夜、何度刃を振っただろう。一度だ。たった一度。

 だから、わたしの一年は、もう十一か月になったのだ。

 こめかみの銀色の髪が、風に吹かれて黒い髪のあいだからこぼれた。久我さんがそれに気づいて、何かを言いかけて、やめた。

「……続きも、あるんですか」

 わたしが訊くと、久我さんは少し驚いたような顔をした。それから、付箋をつけたページを開いた。

 『十三ノ封コトゴトク閉ジ直サバ、灯ハ守リ手ニ還ル』

「十三の封をすべて閉じ直せば、灯は守り手に還る。――削った命が戻る、という意味だと思う」

 心臓が、大きくひとつ鳴った。

「ただし、これが本当かはわからない。じいさんの親父が、誰かから聞いた話を書きつけただけだ。それに――」

 久我さんは、日誌の最後のほうのページを開きかけて、閉じた。

「それに、何ですか」

「……いや。まだ全部は読めてない。字がかすれてるところが多いんだ」

 嘘だと、わかった。でも、それ以上は訊けなかった。

 久我さんは日誌をジャンパーの内側にしまい、立ち上がった。

「今夜、俺が上野の引き上げ線に入る。じいさんの親父が封に使ったというお札が、日誌に挟まってた。それを貼り直してみる」

「わたしも行きます」

「駄目だ」

 即答だった。

「君は、もう十一か月しかないんだぞ。その十一か月を、親御さんや友だちのために使え。俺なんかのために、線路の上で削るもんじゃない」

 夕焼けが、不忍池の蓮の葉を赤く染めていた。久我さんの背中が、その光の中を遠ざかっていった。

◇

 その夜、わたしは自分の部屋で、眠れないまま天井を見ていた。

 十一か月。母と過ごす十一か月。真帆と沖縄の海に入るかもしれない十一か月。

 それだけで、十分じゃないか。

 十二時十五分。スマートフォンが震えた。

 『入る』

 たった二文字。それきり、何も来なかった。

 十二時半。一時。画面は、もう光らない。

 一時十分、わたしは『大丈夫ですか』と送った。既読は、つかなかった。

 わたしは起き上がって、コートを羽織った。

 母の寝室の前で、一度だけ立ち止まる。それから、テーブルの上に短い手紙を置いた。『すぐ帰ります。必ず帰ります。澪』。今度は、黙っては行かない。それが、わたしにできるせいいっぱいのことだった。

◇

 上野駅の出入口には、シャッターが下りていた。

 でも、その脇の保守用の小さな鉄扉が、わずかに開いていた。扉の隨間から、生あたたかい風が吹き上げてくる。地下の、金属と土のにおい。そして――何かが腐ったような、生臭いにおい。

 階段を駆け下りる。常夜灯だけがついたコンコース。停まったエスカレーター。無人の改札を乗り越え、ホームの端から、線路へ飛び降りた。

 トンネルの奥から、かすかな光が漏れていた。ゆらゆらと揺れる、小さな光。――カンテラだ。

 線路が二股に分かれた先、行き止まりの引き上げ線に、久我さんがいた。

 壁を背にして、片膝をついている。左手にカンテラ、右手には破れかけたお札。額から血が流れていた。

 その周りを、黒いものがぐるりと取り囲んでいた。壁から、天井から、線路の砂利のあいだから。染みが立ち上がり、野良犬ほどの大きさの影になって、何十もの目で彼を見つめている。

 カンテラの光が、少しずつ小さくなっていく。

「――来るなと、言っただろう」

 久我さんが、わたしに気づいて叫んだ。その声に、影たちの目がいっせいにこちらを向いた。

 十一か月。母の寝顔。真帆の笑い声。沖縄の海。

 全部、ほしかった。でも、ここでこの人を見捨てて手に入れた十一か月を、わたしはきっと、幸せだとは思えない。

 前の人生で、わたしは誰の役にも立てなかった。ただ守られて、ただ見送られて、終わった。

 今度は、違う。

 胸の奥に、熱が灯った。

「――ごめんなさい、久我さん」

 右手を、前に差し出す。

「わたし、自分で選びたいんです。何に使うかを」

 暗闇の底で、白い光が、もう一度刃の形になった。

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