第3話 見える人
男の人は、線路の脇の小さな階段を上ってホームに来た。ヘルメットを外すと、少し伸びた前髪が額に落ちた。無精ひげがうっすらと生えていて、目の下には濃い隈がある。何日もまともに眠っていない人の顔だった。
わたしは一歩後ろに下がった。
「……何のことですか」
「ごまかさなくていい。俺にも見えてた」
彼は、作業着の胸ポケットから何かを取り出した。古い真鍮のカンテラだった。取っ手には、かすれた文字で「帝都交通 保線」と刻まれている。
「じいさんの形見だ。これを持ってると、あいつらがうっすら見える。ただそれだけだ。戦うことも、追い払うこともできない」
彼はカンテラを少し掲げてみせた。火は入っていない。それなのに、ガラスの奥で、ごく小さな光がゆらゆらと揺れているように見えた。
「三年前から、夜勤のたびに見てた。トンネルの壁に、黒い染みが広がっていくのを。上司に言っても『漏水の跡だろう』で終わりだ。――だが今夜、はじめてあれが壁から剥がれて動くのを見た」
彼の声は、低くて落ち着いていた。でも、カンテラを持つ指が、少しだけ震えていた。
「それで、線路を走って追いかけた。そしたら、止まってる列車の窓から、真っ白な光が漏れてた。――君のいる車両からだ」
わたしは黙って、自分の右手を見た。
ごまかしても無駄だと思った。それに、この人にはごまかしたくなかった。この世界で、あれを見たのはわたしだけじゃなかった。そのことが、思っていたよりずっとうれしかった。
「……わたしも、よくわからないんです。今夜はじめて、あんなことになって」
「名前は」
「白峰澪です」
「久我だ。久我透」
彼はそう名乗ってから、ふと眉をひそめた。
「――ちょっと待て。君、いくつだ」
「十六です。今日なりました」
久我さんは天井を仰いで、長いため息をついた。
「……話はあとだ。まず家に帰らないといけない。親御さんには言って出てきたのか」
わたしは首を横に振った。久我さんはもう一度、さっきよりも長いため息をついた。
「駅の前にタクシーがいる。そこまで送る」
◇
地上に出ると、雷門通りはひっそりと静まり返っていた。シャッターの下りた店が並び、大きな提灯が暗闇の中で黒い影になっている。
久我さんは自動販売機で温かいカフェオレを買って、黙ってわたしに差し出した。
「その咳。さっきの光と関係あるんじゃないのか」
どきりとした。この人は、よく見ている。
「……たぶん、そうです。あの光は、わたしの中から出てきたんです。使ったあと、体の中が空っぽになったみたいで」
わたしは缶を両手で包んだ。あたたかさが、まだ冷たい指先にじんわりとしみていく。
「今日、病院で言われたんです。余命一年だって。原因はわからないけど、体の中の灯が細くなっていくみたいだって」
久我さんは何も言わなかった。ただ、自分の缶コーヒーを開けかけた手が、そのまま止まった。
「だからたぶん、あの光を使うたびに、もっと細くなるんだと思います」
「……なら、二度と使うな」
久我さんの声は、怒っているようにも、泣きそうにも聞こえた。
「あいつらのことは俺がなんとかする。会社を動かして、線路を止めて、――いや、できなくても、やる。君は帰って、家族と一緒にいろ」
「でも、あの影は言ってました。『最初の封はもう緩んでいる』って」
久我さんが、はっと顔を上げた。
「――封、と言ったのか」
「はい。何のことか、わかりますか」
彼はしばらく黙って、古いカンテラを見下ろしていた。
「じいさんが死ぬ前に、うわごとみたいに言ってたんだ。帝都の地下鉄には、開通のときから封がしてある。上野の地下に、最初の封がある。それが割れたら、灯の守り手を探せ――って」
灯の守り手。
その言葉が、夜の空気の中で、しんと響いた。
「ただの老人の昔話だと思ってた。今夜までは」
タクシー乗り場には、一台だけ空車が止まっていた。
久我さんは運転手さんに住所を伝えるようわたしに言い、一万円札を一枚、無理やりわたしの手に握らせた。断ろうとすると、「大人の意地だ」と不機嫌そうに言った。
「封のことは、俺が調べておく。じいさんの遺品も、まだ全部は見てないんだ」
「わたしにも教えてくれますか」
久我さんは、しばらくわたしの顔を見ていた。それから、あきらめたようにスマートフォンを取り出した。
「……教えるだけだ。戦えとは言わない」
連絡先を交換して、タクシーのドアが閉まる。窓の外で、作業着姿の久我さんが小さくなっていった。彼は、車が角を曲がるまで、ずっとそこに立っていた。
◇
家の玄関をそっと開けると、居間の明かりがついたままだった。
母が、テーブルに突っ伏して眠っていた。手にはスマートフォンを握ったまま。画面には、わたしへの発信履歴がいくつも並んでいた。コートのポケットの中で、わたしの電話はずっとマナーモードになっていたのだ。
胸が、ぎゅっと痛んだ。病気のせいではない痛みだった。
前の人生でも、母はいた。病室の椅子で、よくこんなふうに眠っていた。あの人とこの人は別の人なのに、寝顔の疲れ方が、あまりにも似ていた。
わたしは毛布を持ってきて、母の肩にかけた。その拍子に、母が目を覚ました。
「……澪?」
寝ぼけた声が、わたしの顔を見た瞬間に震えた。母は椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり、わたしを抱きしめた。
「どこ行ってたの、どこ行ってたの……!」
「……ごめんなさい。地下鉄に、乗ってみたかったの」
母はそれ以上、何も訊かなかった。ただ、わたしの背中を何度も、何度もさすった。その手のあたたかさに、わたしはようやく、今日はじめて声を上げて泣いた。
――二度と使うな。
久我さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
そうだ。使わなければ、一年は生きられる。この人のそばで、一年。それだけで、前の人生よりずっと幸せなはずだ。
そう思ったのに。
終電でお茶をくれたおばあさんの笑い顔が、なぜか瞼の裏から消えなかった。
◇
明け方。
母がようやく寝室へ戻ったあと、枚元でスマートフォンが短く震えた。
久我さんからだった。
『寝てるなら読まなくていい』
続けて、もう一通。
『上野の引き上げ線を見てきた。壁の黒い染みが、昨日の倍に広がっている。それと――』
少し間を置いて、三通目が届いた。
『染みの真ん中に、文字が浮き出ていた。「十三の一 割る」。――あいつら、数えてるぞ』




