第2話 灯の刃
光は、重さを持っていなかった。
右手に握っているのに、握っている感覚がない。それでいて、自分の腕の続きであることだけははっきりとわかった。指の一本を動かすように、刃の先まで自分の意志が届いている。
長い腕が、光に触れる直前で止まっていた。
指先から、じりじりと黒い煙が立ちのぼっている。焼けているのだ。光に近づいただけで。
「――まだ、これほどの灯が残っていたか」
頭の中に響く声が、はじめて揺らいだ。怒りではなかった。もっと古くて、もっと深いもの。ひどく饣えたものが、ごちそうを前にして喉を鳴らすような響きだった。
影が、後ろへ下がった。
逃げるのではない。様子をうかがうように、腕を床に垂らして、ゆらゆらと揺れている。顔の渦が、少しずつ速くなっていく。
わたしは刃を構えた。構え方など知らない。剣道の授業で竹刀を握ったことがあるだけだ。それなのに、体が勝手に動いた。右足を半歩引き、刃先を相手の胸に向ける。まるで、ずっと昔からそうしてきたみたいに。
――前の人生より、もっと前。
なぜかそんな言葉が、胸の奥をかすめた。
影が動いた。
一瞬だった。車両の奥にいたはずのものが、気づいたときには目の前にいた。座席も空気もすり抜けて、両腕が左右からわたしを包もうとする。刃の光が届かない、横から。
考えるより先に、刃を振っていた。
右から左へ。光が弧を描いて、暗闇を横一文字に裂いた。
音はしなかった。ただ、影の右腕が、肩のあたりからすっと外れて床に落ち、砂のように崩れて消えた。
頭の中で、何かが喉を裂かれたような音を立てた。悲鳴だったのかもしれない。影は大きく身をねじって飛びすさり、そのまま窓ガラスに背中から溶けこむようにして、外の暗闇へ逃げていった。
消える直前、声が残った。
「――遅い。最初の封は、もう緩んでいる」
それきり、何も聞こえなくなった。
◇
刃が、ふっと消えた。
同時に、車内の明かりが戻った。蛍光灯が何度か瞬いて、いつもの白い光が車内を満たす。
『――大変お待たせいたしました。ただいまから運転を再開いたします』
のんびりした車内放送が流れ、電車が何事もなかったように動き出した。
わたしは、つり革にしがみついて立っていた。
サラリーマンはまだ眺っている。大学生は「なんだよ、一瞬だけか」とつぶやいて、また画面に目を戻した。おばあさんは紙袋を抱え直している。
一瞬。あの人たちにとっては、明かりが一瞬ちらついただけなのだ。
右手を開いてみる。何もない。ただ、指先が氷のように冷たかった。冷たさは指から手首へ、手首から肩へと、さっきの熱とは反対の道をたどって胸に戻ってくる。
急に、咳が出た。
止まらなかった。口を押さえてその場にしゃがみこむ。咳きこむたびに、体の奥から何かが削り取られていく感じがした。前の人生で、何度も味わった感触だ。命が少しずつ、どこかへ漏れていく感触。
「……だいじょうぶかい。お嬢ちゃん」
おばあさんが、いつの間にかそばに来ていた。紙袋から小さなペットボトルのお茶を取り出して、わたしに握らせてくれる。その手の温かさに、ようやく咳がしずまった。
「……ありがとうございます」
「終電は冷えるからねえ。若い子がこんな時間に、ひとりで危ないよ」
おばあさんは少し叱るように笑って、元の席へ戻っていった。
危ない。そう、危なかった。でも、もしわたしがこの電車に乗っていなかったら。あの影の腕が伸びた先にいたのは、この人だったかもしれない。
手の中のお茶は、まだあたたかかった。
◇
『――浅草、浅草。終点です。お忘れ物のないよう――』
ホームに降りると、古い駅のにおいがした。タイルの壁、低い天井、何十年もの人の足ですり減った床。
乗客たちは改札へ向かって歩いていく。わたしはひとり、ホームのいちばん端まで歩いていった。
線路の先に、車止めがあった。
赤い小さな灯りがひとつ。その向こうは、ただの壁だ。
――何もないよ。ただ線路が終わってるだけだ。
前の人生の主治医の言葉が、耳の奥でよみがえった。本当だった。終点には何もなかった。線路が、ただ終わっているだけ。
それなのに、涙が止まらなかった。
「……来たよ」
誰にともなく、わたしはつぶやいた。十七歳のわたしに。病室の窓からずっとあの階段を見ていた、あの子に。
「終点まで、来たよ」
そのときだった。
車止めの脚の暗がりで、白い光が揺れた。懐中電灯の光だ。線路に降りていた誰かが、ゆっくりとこちらに光を向ける。
反射材のついた作業着。黄色いヘルメット。二十代半ばくらいの若い男の人だった。
彼は、わたしの顔ではなく、わたしの右手をじっと見ていた。もう何も握っていない、その手を。
「――さっき、トンネルの中で光ったのは」
低い声だった。
「君がやったのか」




