第1話 十七歳の窓、十六歳の夜
病室の窓からは、地下鉄の入口が見えた。
四角い口が地面にぽっかりと開いていて、朝になると人が吸いこまれ、夕方になると吐き出されてくる。わたしはそれを、十二歳から十七歳までの五年間、ベッドの上からずっと眺めていた。
あの階段を下りた先には、どんな景色があるんだろう。
電車に乗って、終点まで行ってみたい。たったそれだけのことが、わたしには叶わない夢だった。
「ねえ、先生。地下鉄の終点って、何があるの」
最後の冬、回診に来た主治医にそう訊いたことがある。先生は少し困った顔で笑って、「何もないよ。ただ線路が終わってるだけだ」と答えた。
それでも行ってみたかった。線路が終わるところを、この目で見てみたかった。
その願いを抱えたまま、わたしは十七歳で死んだ。
最後に覚えているのは、心電図の音が遠くなっていく感じと、真っ暗なところで誰かがささやいた声だ。
――次は、灯を持って生まれなさい。
誰の声だったのかは、今もわからない。
◇
わたしの名前は、白峰澪という。
帝都・東京の下町に生まれて、今日で十六歳になった。
生まれたときから、前の人生の記憶があった。病室の白い天井、消毒液のにおい、窓の外の地下鉄の入口。それから、何もできずに終わった十七年のこと。
だから今の人生では、何でもないことが全部うれしかった。走れること。雨に濡れること。友だちと買い食いをすること。ほかの子が退屈そうにしていることでも、わたしはいちいち感動して、そのたびに「澪って変わってるよね」と笑われた。
鏡を見るたびに、少し不思議な気持ちになる。
前の人生のわたしは、痩せて顔色の悪い女の子だった。今のわたしは違う。色白の肌に、黒くて長い髪。街を歩けば振り返られるし、知らない人から声をかけられることもある。母は「お父さんに似たのね」と言うけれど、父の顔をわたしは写真でしか知らない。
神様が前の人生のお詫びに、少しおまけしてくれたのかもしれない。そう思っていた。
――今日、病院に行くまでは。
◇
「原因は、わからないんです」
診察室の医師は、何枚も並んだ検査結果から目を上げないままそう言った。
ここ半年、わたしは何度も倒れていた。教室で、駅のホームで、お風呂場で。そのたびに血を抜かれ、「異常なし」とだけ書かれた紙をもらって帰ってきた。そして今日、大学病院で最後の検査結果を聞くことになったのだ。
「臓器には異常がない。血液も問題ない。ただ、体の活動量そのものが、少しずつ落ちている。まるで……」
医師はそこで言いよどんだ。
「まるで、灯が細くなっていくように」
母が息を吸う音がした。
「このままの速さで進むと、おそらく……一年です」
一年。
その言葉を聞いて、わたしは泣かなかった。ふしぎなもので、一度知っている絶望は、二度目にはさっきほど痛くない。ただ、胸の奥から小さな声がもれただけだった。
――また、か。
帰り道、母はずっとわたしの手を握っていた。「大丈夫、ほかの病院にも行こう」と何度も言った。その手が震えていた。
家に着くと、テーブルの上に苺のケーキが置いてあった。母が朝のうちに買っておいてくれたものだ。「すみお 十六さいおめでとう」と、チョコレートの板に書いてあった。
ふたりで、黙ってそれを食べた。
とても甘くて、ちゃんとおいしかった。
◇
その夜、わたしは眠れなかった。
十一時を過ぎたころ、母の部屋から泣き声がしなくなるのを待って、わたしはそっと家を出た。コートのポケットには、一度も使ったことのない交通カードが入っていた。
この人生でも、わたしは地下鉄に乗ったことがなかった。通学はいつもバスだったし、どこかへ出かけるときは母の車だった。いつでも乗れると思うと、かえって後回しにしてしまう。人間とはそういうものらしい。
でも、もう「いつでも」はない。
帝都交通・銀座線。この国で最初に開通した地下鉄だ。わたしは渋谷駅のホームで、電光掲示板を見上げた。
『浅草行 終電』
浅草。終点だ。
黄色い車両がホームに滑りこんできたとき、わたしの心臓は、病気とは関係のない理由でどきどきしていた。
車内には、乗客が数人しかいなかった。うつむいて眺るサラリーマン。スマートフォンを見つめる大学生。紙袋を抱えたおばあさん。わたしはドアのすぐ横に立ち、窓の外を見つめた。
電車が動き出す。ホームの明かりが後ろへ流れて、窓の外が真っ暗になる。
これが、あの階段の先にあった景色。
暗闇の中を、トンネルの灯りが等間隔で飛んでいく。ただそれだけのことなのに、わたしは泣きそうになった。前の人生のわたしに、これを見せてあげたかった。
――そのときだった。
窓の外の暗闇が、動いた。
気のせいだと思った。でも、次の灯りが通り過ぎた瞬間、わたしははっきりと見た。トンネルの壁に、黒い何かがびっしりと張りついている。苔でも、煩でもない。それはゆっくりと脈打ち、うごめき、そしていくつもの目を開いた。
窓ガラスのすぐ向こうで、何十もの目が、わたしを見ていた。
叫び声が、うまく出なかった。振り返る。サラリーマンは眺ったままだ。大学生は画面から顔を上げない。誰も、何も見ていない。
わたしにしか、見えていない。
金属がきしむ音がして、電車が急に速度を落とした。つり革がいっせいに揺れる。乗客たちがよろめき、車両はトンネルの途中で完全に止まった。
『――ただいま、前方で異常を検知したため、停車しております。しばらくお待ちください――』
車内放送が、途中でザーッという雑音に変わった。
そして、車内の明かりが消えた。
真っ暗な中で、誰かが「停電?」とつぶやく。その声が、妙に遠くに聞こえた。まるで分厚い水の向こう側から話しているみたいに。
車両のいちばん奥。連結部のドアの前に、さっきまではいなかった「何か」が立っていた。
人の形をしている。でも、腕が長すぎた。指先が床につくほど長い。顔のあるべき場所には、影よりも濃い闇が渦を巻いている。
それが、ゆっくりとこちらを向いた。
「――見えるのか」
声は、耳ではなく、頭の内側に直接響いた。
「灯の娘が、また生まれたか」
ともしび。
その言葉を知っている。十七歳のわたしが、死ぬ間際に聞いた言葉だ。
腕が、伸びた。座席もつり革もすり抜けて、まっすぐにわたしの喉へ。逃げなければと思うのに、足がうごかない。冷たい指先が、肌に触れる寸前――
胸の奥が、燃えるように熱くなった。
医師が「細くなっていく」と言った、あの灯。ほとんど消えかけていたはずのものが、わたしの中で一気に燃え上がるのがわかった。熱は胸から肩へ、肩から腕へと流れ、右のてのひらで白く弾けた。
暗闇の車内が、真昼のように照らし出される。
わたしの手の中で、光がゆっくりと、一振りの刃の形になっていった。




