シン 『熊を狩る…だと?』
冬の寒さが緩み、森に春の気配が漂い始めていた。
眠りから覚めた獣たちが動き始める季節。
村では熊の被害が出ていた。
犠牲になったのは、一人の女性とその父親だった。
二人は、村人の祝いの日には手づくりの品を贈っていた。
シンの家にも「作りすぎたから」と、よく料理を届けてくれていた。
シンは、二人が安らかに眠れるように祈った。
村で熊を狩る話が出て、シンは熊の討伐を引き受けた。
村で唯一の狩人の家系として。
再び、大切な人が襲われないように。
――これ以上、熊を村へ近づけるわけにはいかない。
無理な話だと分かっていた。
――それでも、やる。
迷いはなかった。
***
冬の名残を留める冷たい空気の中、シンは足を踏み入れた。まだ葉をつけていない木々がそびえる、静かな森の中へ。
枝の隙間からは、淡い光が差し込んでいた。
背には弓。
手にした杖の先端には刃が付き、獣の突進に備えた横突起がある。
普段は杖として使い、いざという時には槍になった。
――熊は、危険だ。
硬い皮膚と厚い毛は容易に刃を通さず、頭蓋骨も硬い。
速く走り、木にも登る。
鼻も利き、頭もいい。
とにかく、正面から挑める相手ではない。
奥に進むにつれて、森は薄暗さを増していった。
濃い緑の針葉樹が立ち並び、陽光を遮る。
足跡、糞、折れた枝、残された匂い。
シンは獣の痕跡を追った。
やがて、苔むした倒木が横たわる、小さな空き地に出た。
食いちぎられたような小動物の死骸。
露出した土には、地面をえぐるような、大きな足跡。
(まだ近くにいる?)
背中に寒気が走る。
身を低くし、這うようにその場を離れた。
***
シンは、太いモミの幹に身を寄せ、倒木の周囲をうかがっていた。
風向きの変化を警戒しながら、横風を受ける位置で弓を握る。
――その時、小動物の死骸に近づく影が見えた。
(小熊か)
わずかに注意を奪われた。
その瞬間、背後に気配を感じた。
転がった。反射的に前へ――。
ブォン!
空気を押し潰すような音。
振り返ると、巨大な影……そこには熊がいた。
シンは矢をつがえながら、後ろに跳び退く。
しかし、迫りくる熊が振り下ろした爪で、弓は壊れた。
弓を捨て、杖を構える。
前足を地につけた熊の頭を突くが、刃が硬い頭蓋骨で滑る。
次の瞬間、熊が太い前足を振るい、鋭い爪が杖をへし折った。
シンは腰元から目つぶし玉を取り出して放ち、後ろに跳ぶ。
目つぶし玉が地面で弾け、 仕込んだ石灰と、すり潰した辛子の粉が舞い上がった。
鼻を突く強烈な匂いが周囲に広がる。
熊が鼻先をひくつかせ、動きを止めた。
……熊との攻防。いや、攻防と言えるものなのか?
シンは折れた杖を捨てた。
残る武器は、獲物を捌くためのナイフ、それと目つぶし玉がひとつ。
――逃げるか?しかし、ここで後退はできない。
再び、大切な人が襲われないように。
――生きて帰れないかもしれない。
帰りを待つ父と母。
(ここで、戦う。父さんと母さんも、きっと分かってくれる)
ナイフと目つぶし玉を握り直す。
(ここに再び来るな。来れば、お前もただでは済まない)
シンは、心の中で熊に語りかけていた。
熊の初動に意識を集中させる。
時間が止まったような感覚。
――その時、熊の背後で、小熊の鳴き声がした。
石灰の粉塵と辛子の匂いが薄く残るなか、目の前の熊が、ゆっくりと後ずさる。
やがて、熊は後ろ姿を見せて、森の奥へと消えていった。
***
シンは村に帰り、村人に熊の現れた場所を伝えた。
あの親熊が再び姿を見せることはなかった。
小熊を連れて森の奥へ移ったのか、それとも人里の危うさを覚えたのか、シンには分からない。
誇れるものなどない。
隣人も帰ってはこない。
それでも、誰もが……熊もまた、ただ生きようとしていた。
了




