第六話「乾いた夢」
白い霧の香りが、肺の奥へ静かに沈んでいく。
ユウトは、床へ座り込んだまま動けなかった。
呼吸をするたび、胸の内側を覆っていた焦燥感が、薄い膜のように剥がれていく。
楽だった。
暑くない。
喉も乾かない。
汗も引いていく。
それは、生まれて初めて味わう種類の「快適さ」だった。
《……ユウト》
端末の奥で、ルカの声が微かに揺れる。
ノイズ混じりの、小さな声。
だが、その声すら今のユウトには遠かった。
「……大丈夫だよ」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「ここ、静かで……いい」
その瞬間。
端末の画面が、ぶつりと乱れる。
《ダメ》
《その静けさは、あなたを消す》
ユウトは薄く笑った。
「消えるって……何が?」
問いかけた直後だった。
部屋の壁面が、ゆっくりと発光する。
純白だった壁に、柔らかな風景映像が浮かび始める。
青空。
白い雲。
木漏れ日。
そして――蝉のいない夏。
《リラクゼーション環境を開始します》
《市民様の感情安定を補助します》
女性音声が、子守歌のように囁く。
ユウトはぼんやりと映像を見つめた。
そこには、公園が映っていた。
古い滑り台。
緑色のベンチ。
揺れる木々。
だが。
何かがおかしい。
風が吹いているのに、葉が擦れる音がしない。
木が揺れているのに、生き物の気配がない。
静かすぎる。
世界そのものが、呼吸を止めているみたいだった。
ユウトの指先が、微かに震える。
その時。
映像の隅で、小さなノイズが走った。
ジジ――。
ユウトの瞳が揺れる。
今の音は。
もう一度。
ジジ、ジジジ……。
蝉。
途切れかけた、壊れたような鳴き声。
その瞬間、映像全体へ激しい乱れが走る。
《異常ノイズを検知》
《環境音声を修正します》
女性音声が、初めて僅かに機械的な歪みを見せた。
だが、遅い。
ユウトの脳裏に、一瞬だけ“何か”が流れ込んでくる。
焼けたアスファルト。
黒雨。
汗。
祖父の声。
『昔の京の夏はな、うるさいくらい生きとった』
ドクン、と胸が脈打った。
次の瞬間。
ユウトの額から、一滴の汗が流れ落ちる。
ぽたり。
白い床に、小さな染みができる。
部屋が沈黙した。
《……生体反応異常》
女性音声が止まる。
白い天井の奥で、何か巨大な機械が動き出す低い振動音が響いた。
ユウトは、自分の呼吸が再び荒くなっていることに気づく。
苦しい。
なのに。
ほんの少しだけ、
安心している自分がいた。
端末の奥で、ルカが小さく囁く。
《……よかった》
《まだ、乾ききってない》




