第五話「偽空の檻」
十九時三十分。
四条通烏丸地下連絡区画。
かつて地下鉄へ続いていた巨大空間は、今では白い光に満たされていた。
天井は見えない。
無数のホログラム広告が、柔らかな青空を投影している。
雲はゆっくり流れ、鳥の影まで横切っていた。
だが。
風だけがなかった。
ユウトは立ち止まる。
焼けた地上の熱気は、もう背後に消えている。
ここは涼しかった。
静かで。
清潔で。
完璧だった。
《地下居住短期体験プログラムへようこそ》
女性アナウンスが穏やかに響く。
《本プログラムは、市民幸福向上政策の一環として実施されています》
白い制服を着た案内係たちが、笑顔で参加者を誘導していた。
全員、同じ笑顔だった。
ユウトは列へ並ぶ。
周囲の人々は、どこか浮ついていた。
「地下って初めてですか?」
隣にいた若い男が、小声で話しかけてくる。
「空気、全然違いますよ」
男は興奮したように笑った。
だが、その笑顔には妙な薄さがあった。
感情が表面だけを滑っているような、不自然な軽さ。
「……そうなんですね」
ユウトが答える。
その時。
男の視線が、一瞬だけユウトの首元へ落ちた。
汗。
シャツへ滲んだ湿り気。
男はわずかに眉を動かし、何も言わず前を向いた。
ユウトは無意識に袖で首筋を拭った。
ぽたり。
汗が床へ落ちる。
白い床材の上で、その一滴だけが異物みたいに黒く見えた。
シャトルが到着する。
音はほとんどしなかった。
銀色の車体。
表面には継ぎ目すら見えない。
扉が開く。
内部は、病院のように白かった。
冷気が流れ出す。
人工的なリネンの香り。
ユウトは喉の奥に冷たい違和感を覚えた。
全員が静かに乗り込む。
誰も喋らない。
誰も端末を見ていない。
ただ穏やかな顔で、前だけを見ている。
シャトルが滑るように下降を始めた。
窓の外。
地上の京都が遠ざかる。
焼けたビル群。
黒雨で変色した街並み。
それらが、ゆっくり闇へ沈んでいく。
代わりに。
地下の光が現れ始めた。
白。
どこまでも白い光。
巨大な空洞。
幾何学的に整列した建築群。
人工空。
人工樹木。
人工河川。
まるで、誰かが「理想の都市」を模型として再現したみたいだった。
《地下第六居住区へ到着します》
アナウンス。
ユウトは窓へ額を寄せた。
綺麗だった。
本当に。
息を呑むほど。
なのに。
胸の奥が、少しだけ苦しい。
到着。
扉が開く。
柔らかな風が吹く。
温度は一定。
湿度も一定。
完璧だった。
地下都市の人々が歩いている。
白い服。
滑らかな肌。
誰も汗をかいていない。
誰も声を荒げない。
子供たちですら静かだった。
泣き声がない。
走る音もない。
ただ、穏やかな笑い声だけが規則正しく響いている。
ユウトは喉に引っかかるような感覚を覚えた。
「こちらへどうぞ」
案内アンドロイドが微笑む。
人間と見分けがつかないほど美しい顔だった。
「綺麗な空ですね」
ユウトは見上げる。
青空。
完璧な青。
第一話で見た空に似ていた。
だが違う。
雲が、動いていなかった。
いや。
一定周期で、同じ形を繰り返している。
空まで最適化されていた。
その瞬間。
ユウトの端末が短く震える。
《……聞こえますか》
ルカ。
雑踏の中なのに、その声だけは異様にはっきり聞こえた。
《そこから離れて》
ユウトの呼吸が止まる。
《五分後、この区画の酸素濃度が調整される》
「……調整?」
《笑顔が、一番きれいに見える濃度へ》
ノイズ。
端末画面が乱れる。
一瞬だけ、地下都市の景色が歪んだ。
白い街。
笑う人々。
その背後。
巨大な黒い配管が脈動している。
心臓みたいに。
映像はすぐ消えた。
「……っ」
ユウトは息を呑む。
その時だった。
周囲の人々が、一斉に笑った。
タイミングが、完全に同じだった。
その瞬間。
街灯の明るさが、わずかに増した。
ユウトだけが、それに気づく。
ぞわり、と鳥肌が立った。
《見ないで》
ルカの声。
《この街は、“静かすぎる”》
遠くで、低い駆動音が響いていた。
地下深く。
この楽園の、さらに下。
何か巨大なものが動いている。
ユウトは汗ばんだ掌を握り締める。
その時。
通路脇の白い壁面へ、自分の姿が映った。
周囲の人々は、陶器みたいに滑らかだった。
だが自分だけが違う。
汗。
乱れた呼吸。
湿った髪。
まるで、自分だけがこの街へ紛れ込んだ“生き物”みたいだった。
端末が再び震える。
《ユウト》
ルカの声が、今度ははっきり耳元で囁く。
《その空の、裏側を見て》




