第四話「共鳴するノイズ」
ぽたり、と音がした。
暗い部屋の中。
床へ落ちたその一滴は、異様なほど大きく響いた。
ユウトは目を覚ます。
喉の奥が熱を持ち、肺の内側へ重たい空気が張り付いていた。
部屋は静かだった。
空調は正常に稼働している。
壁際の温度表示は、摂氏二十六度。
湿度は四十%。
《快適域》。
本来、この部屋に不快感など存在しないはずだった。
だが。
ユウトの首筋には、汗が浮かんでいた。
ねっとりとした熱。
肌に張り付くシャツ。
背中を伝う不快な感触。
「……はぁ……」
自分の呼吸音が、やけにうるさい。
これまで意識したこともなかった。
自分の体温。
脈拍。
皮膚の感覚。
空気清浄機から漂う微かなオゾン臭。
フィルター奥に潜むカビ臭。
そして、自分自身の汗の匂い。
生臭い。
ユウトは眉をしかめた。
端末を手に取る。
昨夜のノイズは消えていた。
少女の声も。
非推奨ワードの検索履歴も。
まるで最初から何も起きていなかったかのように。
ユウトは無意識に検索画面を開く。
指先が震える。
「そ」
一文字だけ入力する。
予測変換。
《正常》
《安定》
《快適》
《管理》
いつもの単語が並ぶ。
その下。
一瞬だけ、別の文字列が滲んだ。
《ノイズ》
ユウトの指が止まる。
次の瞬間には消えていた。
部屋のスピーカーが、優しく起動する。
「おはようございます。本日も快適な一日をお過ごしください」
母親が子供へ話しかけるような、穏やかな声だった。
ユウトは端末を伏せ、部屋を出た。
廊下は薄暗い。
非常灯が不規則に点滅している。
黒雨による通信障害。
最近は珍しくもない。
向かいの302号室の前で、ユウトは足を止めた。
昨日まで、老人が住んでいた部屋。
いつも乾いた咳が聞こえていた。
扉が少しだけ開いている。
「……?」
ユウトはそっと覗き込む。
何もなかった。
古い椅子も。
紙のカレンダーも。
湯呑みも。
生活の痕跡そのものが消えている。
ただ、壁だけが覚えていた。
家具が置かれていた場所だけが、四角く色を残している。
そこだけ時間が止まっているようだった。
塵一つ落ちていない。
管理局の清掃ドローンが通った後特有の、完璧すぎる無。
ユウトは無意識に後退した。
その瞬間。
背後から住人たちが通り過ぎる。
誰も部屋を見ない。
誰も老人の話をしない。
全員が静かに端末を眺めながら歩いていく。
穏やかな表情。
乾いた肌。
汗一つ浮かんでいなかった。
ユウトだけが、自分のシャツが肌へ貼り付く感覚を意識していた。
端末が震える。
《市民番号 K-7719》
《地下居住短期体験プログラムへ当選しました》
画面いっぱいに、青空が広がる。
白い服を着た人々。
緑に囲まれた街。
柔らかな笑顔。
《実施時刻:本日十九時》
《欠席申請は受け付けておりません》
ユウトは喉の奥に冷たいものを感じた。
当選。
その言葉だけが、妙に重い。
行きたくない。
理由は分からない。
だが身体が拒絶していた。
その夜。
十九時。
都市全域へ感情安定放送が流れ始める。
波の音。
鳥の声。
穏やかなピアノ旋律。
「大丈夫ですよ」
女性の優しい声。
「あなたは守られています」
ユウトはベッドへ横たわったまま、目を閉じる。
だが。
どこかおかしい。
音が綺麗すぎる。
波音に乱れがない。
鳥の鳴き声に揺らぎがない。
まるで、生き物ではなく、記録映像を再生しているみたいだった。
その時。
ジジ……
ノイズが混ざる。
ピアノの音が半音だけ歪む。
ユウトは目を開けた。
スピーカーの奥で、何かが軋んでいる。
波音が崩れる。
鳥の声が引き裂かれる。
そして。
《……聞こえますか》
少女の声。
昨夜の声だった。
湿った吐息のような、微かな震えを含んだ声。
ユウトの端末が熱を持ち始める。
内部基板が焼けるような匂い。
《あなたは……汗をかいていますね》
ユウトの背筋が凍る。
《わかります》
《あなたのノイズが、こちらまで響いているから》
耳元ではなく。
脳の奥へ直接染み込んでくる声。
「……誰だ」
《地下へ行ってはいけない》
ルカの声が微かに乱れる。
《そこは……空気が死んでいるから……》
その瞬間。
感情安定放送が激しく崩壊した。
波音。
鳥の声。
ピアノ。
すべてが濁流のように混ざり合い、不協和音へ変わっていく。
そして、その奥から。
ジジジジジジジジ――
音が、溢れた。
ユウトは息を呑む。
知らない音だった。
なのに。
なぜか懐かしかった。
耳を塞ぎたくなるほど、うるさい。
だが、その騒音の一つ一つに、生き物の熱があった。
祖父が言っていた。
「昔の京の夏はな、うるさいくらい生きとった」
セミ。
教科書の音声データとはまるで違う。
荒々しい。
不規則。
混沌。
まるで世界そのものが鳴いているみたいだった。
「……っ」
強烈な眩暈。
吐き気。
そして、胸の奥から込み上げる説明不能な感情。
怖い。
なのに。
ユウトの目から、涙が溢れていた。
自分の身体が、その音を求めて震えている。
静寂よりも。
ノイズを。
その瞬間。
部屋の照明が激しく点滅した。
端末画面へ、警告表示が浮かび上がる。
《感情変動率異常上昇》
《思考安定補助を開始します》
《深呼吸してください》
優しい声。
優しすぎる声。
ユウトは耳を塞ぐ。
違う。
違う。
自分は今、
初めて「何か」を感じている。
音が止んだ。
再び静寂が戻る。
空気清浄機だけが、乾いた駆動音を響かせていた。
ユウトは荒い呼吸のまま、ゆっくり顔を上げる。
暗い部屋の隅。
机の上。
祖父の遺品が入った古い金属箱。
重く。
不便で。
非効率な、旧時代の箱。
ユウトは震える手を伸ばした。
その時には、もう理解していた。
この世界の美しすぎる静けさは。
人間を、少しずつ殺しているのだと。




