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ディストピア 弐零八四年  作者: 沁みた大根
第一章「地下都市編」

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第四話「共鳴するノイズ」

ぽたり、と音がした。


 


暗い部屋の中。


床へ落ちたその一滴は、異様なほど大きく響いた。


 


ユウトは目を覚ます。


喉の奥が熱を持ち、肺の内側へ重たい空気が張り付いていた。


 


部屋は静かだった。


空調は正常に稼働している。


壁際の温度表示は、摂氏二十六度。


湿度は四十%。


《快適域》。


 


本来、この部屋に不快感など存在しないはずだった。


 


だが。


 


ユウトの首筋には、汗が浮かんでいた。


 


ねっとりとした熱。


肌に張り付くシャツ。


背中を伝う不快な感触。


 


「……はぁ……」


 


自分の呼吸音が、やけにうるさい。


 


これまで意識したこともなかった。


自分の体温。


脈拍。


皮膚の感覚。


 


空気清浄機から漂う微かなオゾン臭。


フィルター奥に潜むカビ臭。


そして、自分自身の汗の匂い。


 


生臭い。


 


ユウトは眉をしかめた。


 


端末を手に取る。


 


昨夜のノイズは消えていた。


少女の声も。


非推奨ワードの検索履歴も。


 


まるで最初から何も起きていなかったかのように。


 


ユウトは無意識に検索画面を開く。


 


指先が震える。


 


「そ」


 


一文字だけ入力する。


 


予測変換。


 


《正常》

《安定》

《快適》

《管理》


 


いつもの単語が並ぶ。


 


その下。


 


一瞬だけ、別の文字列が滲んだ。


 


《ノイズ》


 


ユウトの指が止まる。


 


次の瞬間には消えていた。


 


部屋のスピーカーが、優しく起動する。


 


「おはようございます。本日も快適な一日をお過ごしください」


 


母親が子供へ話しかけるような、穏やかな声だった。


 


ユウトは端末を伏せ、部屋を出た。


 


廊下は薄暗い。


 


非常灯が不規則に点滅している。


黒雨による通信障害。


最近は珍しくもない。


 


向かいの302号室の前で、ユウトは足を止めた。


 


昨日まで、老人が住んでいた部屋。


いつも乾いた咳が聞こえていた。


 


扉が少しだけ開いている。


 


「……?」


 


ユウトはそっと覗き込む。


 


何もなかった。


 


古い椅子も。


紙のカレンダーも。


湯呑みも。


 


生活の痕跡そのものが消えている。


 


ただ、壁だけが覚えていた。


 


家具が置かれていた場所だけが、四角く色を残している。


 


そこだけ時間が止まっているようだった。


 


塵一つ落ちていない。


 


管理局の清掃ドローンが通った後特有の、完璧すぎる無。


 


ユウトは無意識に後退した。


 


その瞬間。


 


背後から住人たちが通り過ぎる。


 


誰も部屋を見ない。


 


誰も老人の話をしない。


 


全員が静かに端末を眺めながら歩いていく。


 


穏やかな表情。


乾いた肌。


 


汗一つ浮かんでいなかった。


 


ユウトだけが、自分のシャツが肌へ貼り付く感覚を意識していた。


 


端末が震える。


 


《市民番号 K-7719》


《地下居住短期体験プログラムへ当選しました》


 


画面いっぱいに、青空が広がる。


 


白い服を着た人々。


緑に囲まれた街。


柔らかな笑顔。


 


《実施時刻:本日十九時》


《欠席申請は受け付けておりません》


 


ユウトは喉の奥に冷たいものを感じた。


 


当選。


 


その言葉だけが、妙に重い。


 


行きたくない。


 


理由は分からない。


 


だが身体が拒絶していた。


 


その夜。


 


十九時。


 


都市全域へ感情安定放送が流れ始める。


 


波の音。


鳥の声。


穏やかなピアノ旋律。


 


「大丈夫ですよ」


 


女性の優しい声。


 


「あなたは守られています」


 


ユウトはベッドへ横たわったまま、目を閉じる。


 


だが。


 


どこかおかしい。


 


音が綺麗すぎる。


 


波音に乱れがない。


鳥の鳴き声に揺らぎがない。


 


まるで、生き物ではなく、記録映像を再生しているみたいだった。


 


その時。


 


ジジ……


 


ノイズが混ざる。


 


ピアノの音が半音だけ歪む。


 


ユウトは目を開けた。


 


スピーカーの奥で、何かが軋んでいる。


 


波音が崩れる。


 


鳥の声が引き裂かれる。


 


そして。


 


《……聞こえますか》


 


少女の声。


 


昨夜の声だった。


 


湿った吐息のような、微かな震えを含んだ声。


 


ユウトの端末が熱を持ち始める。


 


内部基板が焼けるような匂い。


 


《あなたは……汗をかいていますね》


 


ユウトの背筋が凍る。


 


《わかります》


《あなたのノイズが、こちらまで響いているから》


 


耳元ではなく。


 


脳の奥へ直接染み込んでくる声。


 


「……誰だ」


 


《地下へ行ってはいけない》


 


ルカの声が微かに乱れる。


 


《そこは……空気が死んでいるから……》


 


その瞬間。


 


感情安定放送が激しく崩壊した。


 


波音。


鳥の声。


ピアノ。


 


すべてが濁流のように混ざり合い、不協和音へ変わっていく。


 


そして、その奥から。


 


ジジジジジジジジ――


 


音が、溢れた。


 


ユウトは息を呑む。


 


知らない音だった。


 


なのに。


 


なぜか懐かしかった。


 


耳を塞ぎたくなるほど、うるさい。


 


だが、その騒音の一つ一つに、生き物の熱があった。


 


祖父が言っていた。


 


「昔の京の夏はな、うるさいくらい生きとった」


 


セミ。


 


教科書の音声データとはまるで違う。


 


荒々しい。


不規則。


混沌。


 


まるで世界そのものが鳴いているみたいだった。


 


「……っ」


 


強烈な眩暈。


 


吐き気。


 


そして、胸の奥から込み上げる説明不能な感情。


 


怖い。


 


なのに。


 


ユウトの目から、涙が溢れていた。


 


自分の身体が、その音を求めて震えている。


 


静寂よりも。


 


ノイズを。


 


その瞬間。


 


部屋の照明が激しく点滅した。


 


端末画面へ、警告表示が浮かび上がる。


 


《感情変動率異常上昇》


《思考安定補助を開始します》


《深呼吸してください》


 


優しい声。


 


優しすぎる声。


 


ユウトは耳を塞ぐ。


 


違う。


 


違う。


 


自分は今、


初めて「何か」を感じている。


 


音が止んだ。


 


再び静寂が戻る。


 


空気清浄機だけが、乾いた駆動音を響かせていた。


 


ユウトは荒い呼吸のまま、ゆっくり顔を上げる。


 


暗い部屋の隅。


 


机の上。


 


祖父の遺品が入った古い金属箱。


 


重く。


不便で。


非効率な、旧時代の箱。


 


ユウトは震える手を伸ばした。


 


その時には、もう理解していた。


 


この世界の美しすぎる静けさは。


 


人間を、少しずつ殺しているのだと。

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