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ディストピア 弐零八四年  作者: 沁みた大根
第一章「地下都市編」

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第三話「ノイズの海(改稿版)」

黒雨は、止んでいなかった。


 


古い雑居ビルの外壁を叩く音が、鈍い振動となって廊下へ伝わってくる。


ジウ、ジウジウ――。


 


まるで建物そのものが、少しずつ削られているようだった。


 


ユウトは重い息を吐きながら、薄暗い階段を上がる。


非常灯は半分ほど消えている。


残った照明も、黒雨による電波障害のせいか、不規則に明滅を繰り返していた。


 


地上居住区画。


かつて学生向けマンションだった古い建物群は、今では低所得者用住居として再利用されている。


壁面には断熱シートが幾重にも貼られ、窓の大半は塞がれていた。


 


統合管理局は、それを


《健康的最低水準生活環境》


と呼んでいる。


 


ユウトは自室の前で立ち止まった。


認証ランプが、疲れたように緑色へ変わる。


 


扉を開けた瞬間、熱気が流れ出した。


 


空調は動いている。


だが、“冷えている”とは言い難い。


 


部屋の隅では、小型空気清浄機がかすれた駆動音を立て続けている。


 


ユウトは濡れた制服を脱ぎ捨て、そのままベッドへ腰を落とした。


スプリングが軋む。


 


その瞬間。


 


端末が震えた。


 


《市民番号 K-7719》

《感情変動値が基準値を超過しています》

《思考安定プログラムの優先受診対象に指定されました》


 


画面下に表示される選択肢。


 


《同意する》

《後で確認》


 


「拒否」は存在しなかった。


 


ユウトは無言のまま端末を伏せる。


 


壁際には、祖父の遺品が入った古い金属箱が置かれていた。


今の時代には珍しい、物理ロック式。


統合管理局推奨外製品。


非効率。


旧時代的。


そう分類される種類のものだった。


 


ふと、祖父の声を思い出す。


 


「便利いうんはな、考えんでも済むようになることや」


 


子供の頃は意味が分からなかった。


だが今なら、少しだけ理解できる気がした。


 


ユウトは机の引き出しから、小さな紙片を取り出す。


黄ばんだメモ用紙。


祖父が残した、本物の紙だった。


 


今では紙媒体の個人所有は厳しく制限されている。


改変不能な記録媒体は、


《誤情報拡散リスク》


が高いからだ。


 


ユウトは古びたボールペンを握った。


 


そして、止まる。


 


書けない。


 


頭の中には言葉が浮かんでいる。


だが漢字が思い出せない。


 


――憂鬱。


 


簡単な文字のはずだった。


 


最後に手書きをしたのが、いつだったのか思い出せない。


教育はすべて音声入力とAI補助へ移行している。


文字を書く必要そのものが、消えつつあった。


 


ユウトは苛立ったように紙を丸め、端末を起動した。


 


その瞬間、端末が短く振動する。


 


《ストレス値上昇を検知しました》

《深呼吸を推奨します》

《感情安定BGMを再生しますか?》


 


画面の隅には、小さな「拒否」ボタン。


 


ユウトはそれを押そうとして――指を止めた。


 


代わりに広告が開く。


 


《あなたに最適な精神安定プランがあります》


《初回利用者向け無料カウンセリング実施中》


 


ユウトは舌打ちし、強制的に画面を閉じた。


 


「今日の空は、気味が悪かった」


 


数秒の沈黙。


 


《推奨表現へ変換します》


《本日の空調環境に異常は確認されていません》

《黒雨による一時的視界変動が確認されています》

《市民の皆様は安心して生活できます》


 


ユウトは眉をひそめる。


 


「そうじゃない」


 


再入力。


 


「怖かった」


 


わずかな間。


 


《感情表現を最適化します》


《不安を感じています》

《感情安定プログラムの利用を推奨します》


 


ユウトは舌打ちし、端末を机へ叩き置いた。


 


その瞬間。


 


部屋の照明が、一瞬だけちらつく。


 


黒雨接近時特有の通信障害。


空気中の汚染粒子が、都市ネットワークへ微弱なノイズを発生させる。


教科書には、そう書かれていた。


 


だが。


 


今回のノイズは違った。


 


端末画面が激しく乱れる。


 


白黒の砂嵐。


崩れた文字列。


断続的なノイズ音。


 


そして。


 


見覚えのない検索履歴が、一瞬だけ浮かび上がる。


 


【黒雨 由来】

【西の空 黒い雨】

【ヒロシマ】

【統合管理宣言 死者数】

【感情安定プログラム 副作用】


 


ユウトは息を呑んだ。


 


自分は、こんな検索をしていない。


 


いや――。


 


昨夜、古いネットワークへ潜った時だ。


削除された記録の断片を見た。


ノイズ混じりの映像。


泣き叫ぶ誰か。


 


「平和のためなんだ!」


 


その声が、脳裏に蘇る。


 


突然、画面全体へ警告表示が浮かび上がった。


 


《非推奨ワードへの接触を確認》

《感情変動率上昇》

《思考安定補助を開始します》


 


柔らかな音楽が流れ始める。


 


雨音。


波の音。


 


そして、女性の優しい声。


 


「大丈夫ですよ」


「あなたは守られています」


「不安は、一時的な認識の乱れです」


 


ユウトは耳を塞いだ。


 


やめろ。


 


その時だった。


 


ノイズ混じりの画面の奥で、何かが動く。


 


白黒の砂嵐。


崩れた映像。


 


その向こう側から――


 


《……聞こえますか?》


 


少女の声だった。


 


ユウトの呼吸が止まる。


 


《そこに、まだ人間はいますか?》


 


世界が、一瞬だけ静止する。


 


黒雨の音すら遠ざかった気がした。


 


ユウトは凍りついたまま、暗くなった画面を見つめる。


 


次の瞬間。


 


端末は完全に暗転した。


 


部屋には再び、空気清浄機のかすれた駆動音だけが残っていた。

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