第二話「黒雨」
京都上空を覆う巨大広告群が、一斉に警戒表示へ切り替わる。
《大気汚染嵐接近中》
《地上居住者は速やかに屋内へ退避》
《感情安定放送を開始します》
その声は、あまりにも整っていた。
まるで都市そのものが、まだ正常であるかのように。
《統合管理局より市民の皆様へ》
《黒雨現象は都市環境の一時的調整過程です》
《安心してください。すべては管理基準内です》
一拍遅れて、言葉がわずかに歪む。
《なお――ゲリラ豪雨規模の降雨が局所的に発生します》
そして、何事もなかったように続く。
《繰り返します。安心してください》
《これは正常な統制プロセスの一部です》
安心という言葉だけが、街に残る。
その下で、空はすでに“別の状況”へ移行していた。
黒い雲は、気づいたときにはもう空の半分を覆っていた。
青すぎた空の終わりは、いつも音を立てない。
侵蝕は静かに進行する。
まるで――最初からそこに存在していたかのように。
境界線は曖昧に溶け出し、
陽光を塗りつぶしていくその手際は、鮮やかで、冷徹だった。
空は塗り替えられていくのではない。
“消されていく”。
ユウトは干上がった鴨川の河川敷で、天を仰いだ。
ひび割れた川底は、まるで声を失った喉のようだった。
かつてこの街の夏は、もっと寛容だったと、祖父は言っていた。
打ち水が地面を冷やし、
夕立が一瞬だけ世界を洗い流す。
そのあとに残る湿った空気すら、どこか優しかったらしい。
ユウトは、それを実感として知らない。
記録映像と、祖父の記憶の言葉としてしか触れたことがなかった。
「昔の京の夏はな、うるさいくらい生きとったんや」
ふいに蘇った祖父の声が、熱風の中へ溶けていく。
だが今の空は違う。
今の空がもたらすのは潤いではない。
制圧だ。
「……来るな」
ユウトの声は、乾いた風に掻き消えた。
その瞬間だった。
最初の“音”が落ちる。
ジウ。
焼けた鉄に水を落としたような、短い悲鳴。
ジウ、ジウジウ。
黒い粒が、空から降り始める。
それは雨ではない。
現象の名を借りた、質量を持つ侵入だった。
そしてすぐに――状況は変わる。
空のダムが決壊した。
ゲリラ豪雨。
その言葉では到底足りない。
都市全体へ一斉に叩きつけられるそれは、
制御を失った自然ではなく、
“解放された圧力”そのものだった。
視界は一瞬で黒に染まる。
雨粒は水ではない。
空気を削る礫のように叩きつけてくる。
その直後。
鴨川が“目を覚ます”。
干上がっていた川底へ、黒い水が一気に流れ込む。
上流から押し寄せる濁流は、
止まっていた時間を無理やり引きずり戻すように膨張していく。
氾濫。
水は堤防を越え、
街の構造を無視して広がっていく。
かつての穏やかな流れはもうない。
そこにあるのは、ただの“押し流す力”だった。
ユウトは舌打ちした。
「……っ、冗談じゃない」
コンクリート階段を駆け上がる。
背後で水が街を呑み込む音がする。
ジウ、ジウジウ――
それはもう雨音ではない。
都市が削られる音だった。
逃げ込んだのは、川沿いの古い雑居ビルの自宅。
重い鉄扉をこじ開け、ユウトは中へ転がり込む。
扉が閉まる。
その瞬間、外界が一段遠ざかる。
だが完全には消えない。
壁を通してもなお、黒雨の振動だけが伝わってくる。
世界はまだ、そこにある。
ユウトは濡れた髪を振った。
呼吸が荒い。
「……はぁ……はぁ……」
肩から落ちる黒い雫を見つめる。
それが雨なのか、街の残骸なのか、もう区別がつかなかった。
ただ一つだけ確かなのは――
この世界は、静かに“別の形へ移行した”ということだった。




