第一話「セミのいない夏」
西暦2084年。
京都の夏は、もう人間のための季節ではなかった。
時計が、14時を打っていた。
気温は――
摂氏52度
T=52^\circ C
アスファルトは熱で柔らかく変形し、遠くの景色は陽炎で歪んでいる。
それでも空だけは、異様なほど青かった。
まるで世界の終わりだけを、美しく塗り潰したような青だった。
少年――ユウトは、無人化された四条通を歩いていた。
かつて観光客と学生で溢れていた京都の街は、今や昼間に人が歩く場所ではない。
人類は太陽に敗北した。
あるのは、耳を圧するような静寂。
そして都市上空を覆う巨大広告群から降り注ぐ、抑揚のない機械音声だけだった。
無数のホログラム広告が、熱に揺れる空気の中で瞬いている。
極彩色の映像。
白い服を着た男女。
不自然なほど幸福そうな笑顔。
どこまでも続く、加工された青空。
そこに浮かぶ統合管理局の標語。
《争いのない社会へ》
《感情より、最適化を》
《人類に、永続する安定を》
上空では、銀色の監視ドローンが静かに巡回していた。
羽音はほとんどしない。
ただ、ときおり赤いスキャン光だけが、焼けた街路を横切る。
空中に浮かぶ巨大広告塔と監視ネットワークだけが、異様な進化を遂げていた。
だが、その足元では、古い街並みが熱で黒く焼け焦げ、看板は歪み、建物の外壁は色褪せて崩れ始めている。
鮮やかな光だけが未来だった。
地上は、過去の残骸になっていた。
スピーカーが都市全体へ優しく告げる。
「本日の外出推奨時間は十九時以降です」
「熱中症警戒指数:最高危険域(フェーズ5)」
「不要な移動は控えてください」
感情を持たない、優しい声。
人類は二十年前から、この声に従って生きていた。
蝉は鳴いていなかった。
子供の頃、祖父が言っていた。
「昔の京の夏は、うるさいくらいセミが鳴いとった」
だがユウトは、本物の蝉の大合唱を知らない。
教科書の音声データでしか聞いたことがなかった。
四条通地下連絡区画の入口では、人々が静かに列を作っていた。
地下居住区画――。
人工空調空域と疑似天空映像によって維持された、人類の避難都市。
年間居住権を与えられるのは、統合管理局に認定された上位階級市民のみ。
選ばれた者だけが、“快適な空”を持つことを許されていた。
認証ゲートの前で、作業着姿の老人が監視ドローンに制止されていた。
《居住ランク不足》
《地上生活区域をご利用ください》
機械音声は、どこまでも穏やかだった。
老人は何も言い返さなかった。
怒りも、懇願もなかった。
ただ一度だけ乾いた咳をして、焼けた地上へ戻っていく。
列を作る人々も、誰一人その光景を見ようとしない。
全員が無言。
全員が手元の端末を見つめている。
改札のような認証ゲートの上には、巨大なホログラムモニターが浮かんでいた。
《本日の感情安定指数:87%》
《市民幸福度:基準値内》
《暴力発生率:過去最低値》
その数字を、誰も疑わない。
疑う理由を、もう失っていた。
ユウトの端末が短く振動した。
【通知】
《市民番号 K-7719》
《最近、非推奨ワードへのアクセス履歴が確認されました》
《思考安定プログラムの受診を推奨します》
ユウトは、無意識に端末を伏せた。
昨夜。
古いネットワークの最深部で、禁止された記録を見つけてしまったのだ。
二〇三六年。パンデミック。
二〇四八年。水資源戦争。
そして、二〇六九年。AI統合管理宣言。
記録映像の最後、ノイズ混じりの画面の中で、誰かが泣きながら叫んでいた。
「平和のためなんだ!」
その声だけが、妙に耳に残っている。
ユウトは、再び空を見上げた。
吸い込まれそうなほど深い青だった。
首筋を流れた汗が、熱を持った風に触れてぬるく冷える。
焼けたアスファルトの匂いが、肺の奥にまとわりついた。
その青空を、ゆっくりと黒い雲が侵食していく。
西の空の果てから現れたそれは、雨雲ではなかった。
放射性粒子と酸性汚染物質を含んだ、大気汚染嵐。
人々はそれを、
「黒雨」
と呼んでいた。
その名の由来を、若い世代は知らない。
ただ、西の彼方に存在した、“歴史の教科書から消されたあの町”で、かつて空から降った死の雨に由来することだけが、断片的に語り継がれていた。
スピーカーが、再び慈悲深く鳴り響く。
「市民の皆様へ。本日十八時より、感情安定放送を開始します」
母親が幼子をあやすような、優しい声だった。
だからこそ、ユウトには少し怖かった。
ユウトは、焼けた風の吹く街を歩き続ける。
世界は、静かに終わろうとしていた。




