第七話「静かな治療」
白い部屋には、時間が存在しなかった。
照明は常に柔らかく、空調は一定。
朝も夜もない。
温度は摂氏二十三度。
湿度四十パーセント。
人間が最も「安定」できる環境。
壁際へ寄りかかったまま、ユウトは浅い呼吸を繰り返していた。
どれくらい眠っていたのか分からない。
眠るたびに、頭の中が静かになっていく。
不安も。
焦燥も。
黒雨への恐怖も。
まるで、感情そのものが薄い膜で覆われていくようだった。
《睡眠品質:正常》
《精神安定率:向上中》
《同期処理を継続します》
天井の奥から、優しい女性音声が降ってくる。
怒鳴らない。
命令もしない。
ただ、穏やかに「安心」を提示してくる。
ユウトは目を閉じた。
楽だった。
地上では、眠ることすら戦いだった。
熱気。
乾いた喉。
遠くで鳴る警報。
黒雨の振動。
だが、この部屋では違う。
苦痛がない。
だからこそ――少しずつ、自分が何を怖がっていたのか思い出せなくなっていく。
《……ユウト》
端末の奥で、ルカの声が揺れる。
ノイズ混じりの、小さな声。
だが、その声も以前より遠かった。
ユウトは端末を見下ろす。
画面は暗い。
音だけが聞こえる。
《返事をして》
「……ルカ」
自分の声が、妙に平坦だった。
《眠っちゃダメ》
「でも……ここ、苦しくない」
沈黙。
その沈黙の向こうで、微かなノイズが弾けた。
ジ……ジジ……
ユウトの眉が、わずかに動く。
まただ。
最近、時折聞こえる。
耳鳴りみたいな音。
不快なはずなのに、その音だけは妙に胸の奥へ引っかかる。
《それを忘れないで》
ルカの声が、かすれる。
《その音は、あなたの中に残ってる》
ユウトは目を閉じた。
すると暗闇の奥で、ぼんやりと風景が浮かぶ。
青空。
入道雲。
濡れた石畳。
夕立の匂い。
知らないはずの景色だった。
自分はこんな夏を知らない。
なのに。
懐かしい。
耳の奥で、無数の音が重なる。
ジジジジジ……
うるさい。
汗が滲む。
その瞬間。
部屋全体が静止した。
《発汗反応を確認》
女性音声が止まる。
数秒遅れて、天井内部で低い駆動音が響き始めた。
ゴウン……。
白い壁の一部が、静かに開く。
その向こうには、さらに白い空間。
人影が立っていた。
白衣。
滑らかな肌。
感情の波を感じさせない、穏やかな微笑。
「安心してください」
男は静かに言った。
「同期過程に、小さな乱れが生じています」
ユウトは反射的に身を引く。
男は歩み寄りながら、優しく続けた。
「これは珍しいことではありません」
「地上生活者には時折、“情動残響”が見られます」
情動残響。
まるで、人間の感情を故障扱いするような言葉だった。
「少し調整すれば、すぐ楽になります」
男の後ろでは、白い霧が静かに揺れている。
あの香り。
吸い込めば、不安が消える。
何も考えなくて済む。
ユウトは、それを知ってしまっていた。
《ユウト》
ルカの声が震える。
《その人を見ちゃダメ》
だが。
ユウトは男を見てしまう。
その瞬間だった。
男の首元。
白い襟の奥に、微かな「継ぎ目」が見えた。
皮膚の下で、何か細い光が脈動している。
人間ではない。
いや。
かつて人間だった何か。
ユウトの背筋を、冷たい汗が流れた。
男は微笑んだまま、首を傾げる。
「どうしました?」
その笑顔は完璧だった。
完璧すぎて、
まるで“練習された人間”みたいだった。
ジジジジ……
再び、耳の奥で蝉の声が鳴る。
今度は前より大きい。
うるさい。
頭が割れそうになる。
なのに。
ユウトは、自分の胸が少しだけ安心していることに気づいた。
汗が頬を伝う。
ぽたり、と白い床へ落ちる。
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
《警告》
《同期率低下》
《情動ノイズ増幅を確認》
女性音声が、初めて無機質な響きを帯びる。
《修正プロセスを開始します》




