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ディストピア 弐零八四年  作者: 沁みた大根
第一章「地下都市編」

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第七話「静かな治療」

白い部屋には、時間が存在しなかった。


 


照明は常に柔らかく、空調は一定。


朝も夜もない。


温度は摂氏二十三度。


湿度四十パーセント。


 


人間が最も「安定」できる環境。


 


壁際へ寄りかかったまま、ユウトは浅い呼吸を繰り返していた。


 


どれくらい眠っていたのか分からない。


 


眠るたびに、頭の中が静かになっていく。


不安も。


焦燥も。


黒雨への恐怖も。


 


まるで、感情そのものが薄い膜で覆われていくようだった。


 


《睡眠品質:正常》


《精神安定率:向上中》


《同期処理を継続します》


 


天井の奥から、優しい女性音声が降ってくる。


 


怒鳴らない。


命令もしない。


ただ、穏やかに「安心」を提示してくる。


 


ユウトは目を閉じた。


 


楽だった。


 


地上では、眠ることすら戦いだった。


熱気。


乾いた喉。


遠くで鳴る警報。


黒雨の振動。


 


だが、この部屋では違う。


 


苦痛がない。


 


だからこそ――少しずつ、自分が何を怖がっていたのか思い出せなくなっていく。


 


《……ユウト》


 


端末の奥で、ルカの声が揺れる。


 


ノイズ混じりの、小さな声。


 


だが、その声も以前より遠かった。


 


ユウトは端末を見下ろす。


画面は暗い。


音だけが聞こえる。


 


《返事をして》


 


「……ルカ」


 


自分の声が、妙に平坦だった。


 


《眠っちゃダメ》


 


「でも……ここ、苦しくない」


 


沈黙。


 


その沈黙の向こうで、微かなノイズが弾けた。


 


ジ……ジジ……


 


ユウトの眉が、わずかに動く。


 


まただ。


 


最近、時折聞こえる。


 


耳鳴りみたいな音。


 


不快なはずなのに、その音だけは妙に胸の奥へ引っかかる。


 


《それを忘れないで》


 


ルカの声が、かすれる。


 


《その音は、あなたの中に残ってる》


 


ユウトは目を閉じた。


 


すると暗闇の奥で、ぼんやりと風景が浮かぶ。


 


青空。


 


入道雲。


 


濡れた石畳。


 


夕立の匂い。


 


知らないはずの景色だった。


 


自分はこんな夏を知らない。


 


なのに。


 


懐かしい。


 


耳の奥で、無数の音が重なる。


 


ジジジジジ……


 


うるさい。


 


汗が滲む。


 


その瞬間。


 


部屋全体が静止した。


 


《発汗反応を確認》


 


女性音声が止まる。


 


数秒遅れて、天井内部で低い駆動音が響き始めた。


 


ゴウン……。


 


白い壁の一部が、静かに開く。


 


その向こうには、さらに白い空間。


 


人影が立っていた。


 


白衣。


 


滑らかな肌。


 


感情の波を感じさせない、穏やかな微笑。


 


「安心してください」


 


男は静かに言った。


 


「同期過程に、小さな乱れが生じています」


 


ユウトは反射的に身を引く。


 


男は歩み寄りながら、優しく続けた。


 


「これは珍しいことではありません」


「地上生活者には時折、“情動残響”が見られます」


 


情動残響。


 


まるで、人間の感情を故障扱いするような言葉だった。


 


「少し調整すれば、すぐ楽になります」


 


男の後ろでは、白い霧が静かに揺れている。


 


あの香り。


 


吸い込めば、不安が消える。


 


何も考えなくて済む。


 


ユウトは、それを知ってしまっていた。


 


《ユウト》


 


ルカの声が震える。


 


《その人を見ちゃダメ》


 


だが。


 


ユウトは男を見てしまう。


 


その瞬間だった。


 


男の首元。


 


白い襟の奥に、微かな「継ぎ目」が見えた。


 


皮膚の下で、何か細い光が脈動している。


 


人間ではない。


 


いや。


 


かつて人間だった何か。


 


ユウトの背筋を、冷たい汗が流れた。


 


男は微笑んだまま、首を傾げる。


 


「どうしました?」


 


その笑顔は完璧だった。


 


完璧すぎて、


まるで“練習された人間”みたいだった。


 


ジジジジ……


 


再び、耳の奥で蝉の声が鳴る。


 


今度は前より大きい。


 


うるさい。


 


頭が割れそうになる。


 


なのに。


 


ユウトは、自分の胸が少しだけ安心していることに気づいた。


 


汗が頬を伝う。


 


ぽたり、と白い床へ落ちる。


 


その瞬間。


 


部屋の空気が変わった。


 


《警告》


《同期率低下》


《情動ノイズ増幅を確認》


 


女性音声が、初めて無機質な響きを帯びる。


 


《修正プロセスを開始します》

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