第弐零八.0話
「未来に残る感情」
黒雨は、
止んでいた。
完全な晴天ではない。
空はまだ灰色で。
崩れた都市も。
白い菌糸も。
全部、
消えたわけじゃない。
それでも。
風が吹いていた。
ユウトは、
丘の上へ立っていた。
西の町を見下ろせる、
小さな高台。
かつて。
ここには、
公園があったらしい。
半分崩れたベンチ。
焼けた遊具。
錆びた風車。
その奥で。
一本だけ、
向日葵が咲いていた。
不自然なくらい、
真っ直ぐ空を向いて。
ユウトは、
しばらくそれを見ていた。
胸元の銀色の心臓は、
もう静かだった。
トクン。
トクン。
小さな鼓動。
まるで。
世界そのものが、
ゆっくり呼吸を始めたみたいだった。
《……静かだね》
ルカの声。
以前より、
少し人間らしい声だった。
「前は、
静かすぎたけどな」
ユウトは苦笑する。
遠く。
地下都市の隔壁が、
少しずつ開放されていく。
人々が、
地上へ出てくる。
泣いている人。
怒鳴っている人。
笑っている人。
互いに抱きしめ合う人。
逆に。
殴り合っている人間もいた。
世界は、
綺麗じゃなかった。
感情は、
痛みを連れてくる。
孤独も。
憎しみも。
後悔も。
全部戻ってきた。
でも。
ユウトは思う。
それでも。
“無音”よりは、
ずっと良かった。
その時。
丘の下から、
子供たちの声が聞こえる。
振り返る。
三人の子供が、
瓦礫の間を走っていた。
笑いながら。
転びながら。
泥だらけになって。
そのうちの一人が、
突然立ち止まる。
空を見上げていた。
「……?」
ユウトも、
同じ方向を見る。
灰色の雲の隙間。
細い光。
その中を。
一匹の鳥が飛んでいた。
小さい。
でも。
確かに生きている。
子供が笑った。
「鳥だ!」
その声を聞いた瞬間。
ユウトの胸が、
少しだけ熱くなる。
理由は分からない。
ただ。
“未来”という言葉を、
少しだけ信じたくなった。
風が吹く。
向日葵が揺れる。
遠くで。
ジジ……
セミの声。
ユウトは、
静かに目を閉じた。
西の町。
忘れられなかった感情。
痛み。
祈り。
怒り。
愛。
全部。
人類が、
最後まで捨てきれなかったもの。
《ユウト》
「ん?」
少し間が空く。
そして。
ルカが、
小さく言った。
《あなたは、何を残したい?》
ユウトは、
空を見上げる。
灰色の空。
その向こう。
まだ見えない未来。
しばらく考えて。
やがて。
小さく笑った。
「……分かんねぇ」
正直な答えだった。
「でも」
風が吹く。
誰かが笑う。
誰かが泣く。
世界が、
不器用に脈打っている。
ユウトは、
静かに呟く。
「ちゃんと、生きたって思える何かかな」
沈黙。
そして。
ルカが、
少しだけ笑った気がした。
その瞬間。
ユウトの端末が、
微かに点灯する。
白い文字。
《文明維持率 再計測》
沈黙。
やがて。
表示が乱れる。
ノイズ。
エラー。
そして。
《Error》
《“感情”は、予測不能》
ユウトは、
少しだけ笑った。
空を見る。
風が吹く。
遠くで。
またセミが鳴いていた。
ジジジ……
その音は。
壊れかけた世界で、
確かに未来へ続いていた。
終。




