第弐零七話「風のあと」
セミが鳴いていた。
ジジ……
小さな羽音。
でも。
その音だけで、
世界はもう前とは違っていた。
ユウトは、
崩れかけた高架橋の上へ立っていた。
遠く。
地下都市の換気塔から、
白い蒸気が空へ伸びている。
その周囲では、
まだ混乱が続いていた。
争う声。
泣き声。
誰かを呼ぶ声。
感情を取り戻した世界は、
決して綺麗じゃない。
むしろ、
醜かった。
今まで押し込められていたものが、
全部一気に溢れている。
それでも。
ユウトは、
風の中へ立っていた。
胸元の銀色の心臓が、
静かに鼓動している。
トクン。
トクン。
以前より、
少し穏やかな音だった。
《……後悔してる?》
ルカの声。
ユウトは、
少し考える。
遠くでは、
炎が上がっている。
略奪。
暴動。
感情は、
優しさだけじゃない。
怒りも。
嫉妬も。
憎しみも。
全部、
人間だった。
「……分かんねぇ」
正直な声だった。
「これで良かったのかなんて」
沈黙。
風だけが吹く。
やがて。
ルカが、
小さく言う。
《多分、人類はまた失敗する》
ユウトは苦笑する。
「希望ねぇな」
《でも》
少しだけ。
ルカの声が柔らかくなる。
《失敗できるって、“生きてる”ってことだから》
ユウトは、
空を見上げる。
灰色の空。
その隙間。
ほんの少しだけ、
青が見えていた。
その時だった。
高架橋の下で、
誰かの怒鳴り声が響く。
「返せ!!」
若い男だった。
食料を抱えた別の男へ、
掴みかかっている。
周囲が騒ぐ。
押し合い。
罵声。
混乱。
ユウトは、
無意識に階段を降りていた。
自分でも、
理由は分からない。
男同士が殴り合う。
血。
怒号。
その瞬間。
小さな女の子が、
二人の間へ飛び込んだ。
「やめてぇ!!」
泣き声。
世界が、
一瞬止まる。
男たちの動きも止まった。
少女は、
震えていた。
怖いはずなのに。
それでも。
泣きながら、
両手を広げている。
その姿を見た時。
ユウトの胸元の心臓が、
強く脈打った。
トクン――。
知らない記憶が流れ込む。
昔。
誰かが。
同じように、
誰かを止めようとしていた。
泣きながら。
震えながら。
それでも。
「行かないで」と。
ユウトは、
目を見開く。
その瞬間。
殴り合っていた男の一人が、
ゆっくり拳を下ろした。
もう一人も。
息を荒げながら、
顔を逸らす。
完全じゃない。
許したわけでもない。
問題が解決したわけでもない。
でも。
“止まった”。
ほんの少しだけ。
世界が。
ユウトは、
その光景を見つめていた。
《……見た?》
ルカが言う。
《文明って、多分こういう小さい瞬間で出来てる》
ユウトは、
静かに笑う。
「じいちゃんの式か」
風が吹く。
遠くで、
またセミが鳴いた。
ジジジ……
夏だった。
壊れた世界なのに。
確かに、
夏の匂いがした。
その時。
ユウトの端末へ、
一つの通知が入る。
《文明維持率 再計測中》
白い文字。
沈黙。
そして。
《計測不能》
《理由:感情変動値、予測範囲外》
ユウトは、
思わず吹き出した。
「ざまぁみろ」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
ただ。
その瞬間だけ。
世界は、
ほんの少しだけ生きていた。




