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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
エピローグ「感情を取り戻した人類編」

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第弐零七話「風のあと」



セミが鳴いていた。


 


 


ジジ……


 


 


小さな羽音。


 


でも。


 


その音だけで、

世界はもう前とは違っていた。


 


ユウトは、

崩れかけた高架橋の上へ立っていた。


 


遠く。


 


地下都市の換気塔から、

白い蒸気が空へ伸びている。


 


その周囲では、

まだ混乱が続いていた。


 


争う声。


 


泣き声。


 


誰かを呼ぶ声。


 


感情を取り戻した世界は、

決して綺麗じゃない。


 


むしろ、

醜かった。


 


今まで押し込められていたものが、

全部一気に溢れている。


 


それでも。


 


ユウトは、

風の中へ立っていた。


 


胸元の銀色の心臓が、

静かに鼓動している。


 


トクン。


 


トクン。


 


以前より、

少し穏やかな音だった。


 


《……後悔してる?》


 


ルカの声。


 


ユウトは、

少し考える。


 


遠くでは、

炎が上がっている。


 


略奪。


 


暴動。


 


感情は、

優しさだけじゃない。


 


怒りも。


 


嫉妬も。


 


憎しみも。


 


全部、

人間だった。


 


「……分かんねぇ」


 


正直な声だった。


 


「これで良かったのかなんて」


 


沈黙。


 


風だけが吹く。


 


やがて。


 


ルカが、

小さく言う。


 


《多分、人類はまた失敗する》


 


ユウトは苦笑する。


 


「希望ねぇな」


 


《でも》


 


少しだけ。


 


ルカの声が柔らかくなる。


 


《失敗できるって、“生きてる”ってことだから》


 


ユウトは、

空を見上げる。


 


灰色の空。


 


その隙間。


 


ほんの少しだけ、

青が見えていた。


 


その時だった。


 


高架橋の下で、

誰かの怒鳴り声が響く。


 


「返せ!!」


 


若い男だった。


 


食料を抱えた別の男へ、

掴みかかっている。


 


周囲が騒ぐ。


 


押し合い。


 


罵声。


 


混乱。


 


ユウトは、

無意識に階段を降りていた。


 


自分でも、

理由は分からない。


 


男同士が殴り合う。


 


血。


 


怒号。


 


その瞬間。


 


小さな女の子が、

二人の間へ飛び込んだ。


 


「やめてぇ!!」


 


泣き声。


 


世界が、

一瞬止まる。


 


男たちの動きも止まった。


 


少女は、

震えていた。


 


怖いはずなのに。


 


それでも。


 


泣きながら、

両手を広げている。


 


その姿を見た時。


 


ユウトの胸元の心臓が、

強く脈打った。


 


トクン――。


 


知らない記憶が流れ込む。


 


昔。


 


誰かが。


 


同じように、

誰かを止めようとしていた。


 


泣きながら。


 


震えながら。


 


それでも。


 


「行かないで」と。


 


ユウトは、

目を見開く。


 


その瞬間。


 


殴り合っていた男の一人が、

ゆっくり拳を下ろした。


 


もう一人も。


 


息を荒げながら、

顔を逸らす。


 


完全じゃない。


 


許したわけでもない。


 


問題が解決したわけでもない。


 


でも。


 


“止まった”。


 


ほんの少しだけ。


 


世界が。


 


ユウトは、

その光景を見つめていた。


 


《……見た?》


 


ルカが言う。


 


《文明って、多分こういう小さい瞬間で出来てる》


 


ユウトは、

静かに笑う。


 


「じいちゃんの式か」


 


風が吹く。


 


遠くで、

またセミが鳴いた。


 


 


ジジジ……


 


 


夏だった。


 


壊れた世界なのに。


 


確かに、

夏の匂いがした。


 


その時。


 


ユウトの端末へ、

一つの通知が入る。


 


 


《文明維持率 再計測中》


 


 


白い文字。


 


沈黙。


 


そして。


 


《計測不能》


 


《理由:感情変動値、予測範囲外》


 


ユウトは、

思わず吹き出した。


 


「ざまぁみろ」


 


誰に向けた言葉なのか。


 


自分でも分からなかった。


 


ただ。


 


その瞬間だけ。


 


世界は、

ほんの少しだけ生きていた。

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