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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
エピローグ「感情を取り戻した人類編」

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第弐零六話「夏の匂い」

「夏の匂い」


 


世界は、

壊れていた。


 


地下都市。


 


白い照明。


 


無機質な廊下。


 


今までずっと、

感情を押し殺していた人々が。


 


突然。


 


“人間”へ戻されてしまった。


 


 


「うるさい!!」


 


 


誰かの怒鳴り声。


 


 


「嫌だ……嫌だよ……!」


 


 


泣き崩れる女。


 


 


「なんで今さら……!」


 


 


壁を殴る男。


 


 


笑い声。


 


 


悲鳴。


 


 


抱き合う恋人。


 


 


取っ組み合いの喧嘩。


 


 


地下都市は、

混乱していた。


 


だが。


 


その混乱は、

どこか熱を持っていた。


 


静かな死ではない。


 


生き物の熱。


 


ユウトは、

地下通路をゆっくり歩いていた。


 


誰もが、

自分の感情に振り回されている。


 


初めて怒る者。


 


初めて泣く者。


 


初めて、

“寂しい”を理解する者。


 


ある老人は、

通路の隅で声を上げて泣いていた。


 


理由は、

本人にも分からない。


 


ただ。


 


涙だけが止まらない。


 


その横で。


 


小さな子供が、

不思議そうにその涙を見つめていた。


 


ユウトは、

立ち止まる。


 


胸の奥が、

少しだけ痛んだ。


 


昔なら。


 


何も感じなかったはずだった。


 


《……世界が、不安定になってる》


 


ルカの声。


 


以前より、

少し人間らしい響きになっていた。


 


《でも》


 


《これが、本来の人類》


 


ユウトは、

静かに目を閉じる。


 


白い塔。


 


黒い雨。


 


西の町。


 


無数の記憶。


 


泣きながら、

「忘れないで」と叫んでいた声。


 


全部が、

まだ胸の奥へ残っている。


 


その時だった。


 


通路の奥で、

怒号が響く。


 


「ふざけるな!!」


 


男が、

別の男へ掴みかかっていた。


 


「全部、お前らのせいだろ!!」


 


殴る。


 


殴り返す。


 


周囲が悲鳴を上げる。


 


誰かが止める。


 


誰かが泣く。


 


混沌。


 


だが。


 


ユウトは、

不思議と目を逸らさなかった。


 


怖い。


 


苦しい。


 


面倒だ。


 


それでも。


 


“生きている”と思った。


 


《文明は、綺麗なものじゃない》


 


ルカが言う。


 


《痛みも、怒りも、矛盾もある》


 


《でも》


 


《それでも人類は、誰かと生きようとしてきた》


 


ユウトは、

ゆっくり歩き出す。


 


やがて。


 


地下都市の出口へ辿り着く。


 


重い隔壁。


 


崩れかけたゲート。


 


非常警告灯だけが、

赤く点滅している。


 


その向こう。


 


地上。


 


ユウトは、

ゆっくり外へ出た。


 


風。


 


その瞬間。


 


ユウトの足が止まる。


 


「……あ」


 


初めてだった。


 


空気に、

“匂い”があった。


 


湿った土。


 


崩れた草木。


 


遠くの雨。


 


焼けた鉄。


 


そして。


 


どこか懐かしい、

夏の匂い。


 


ユウトは、

空を見上げた。


 


灰色の空。


 


完全な晴天じゃない。


 


でも。


 


風が吹いていた。


 


遠くで、

誰かが笑っている。


 


誰かが怒鳴っている。


 


誰かが泣いている。


 


世界は、

まだ壊れたままだ。


 


争いも消えていない。


 


きっと、

また間違える。


 


それでも。


 


静かな死よりは、

ずっと人間らしかった。


 


ユウトは、

胸元へ触れる。


 


銀色の心臓。


 


まだ、

小さく脈打っている。


 


トクン。


 


トクン。


 


そして。


 


ユウトは、

廃墟の道路脇で足を止めた。


 


小さな子供が、

転んで泣いていた。


 


幼い声。


 


ぐしゃぐしゃの涙。


 


その瞬間。


 


若い母親が、

慌てて駆け寄る。


 


「大丈夫!?」


 


抱きしめる。


 


強く。


 


まるで、

失いたくないものを守るみたいに。


 


子供は、

泣きながら母親へしがみついた。


 


その姿を見た時。


 


ユウトは、

初めて少しだけ笑った。


 


ほんの少しだけ。


 


ぎこちなく。


 


でも。


 


確かに、

笑っていた。


 


そしてその夜。


 


白い塔の最上部。


 


崩れかけた観測端末へ。


 


ユウトは、

震える指で一つの式を書き残す。


 


C(t) = (T × E × H × F) / (1 + Ω(G + D + S))



* C(t) = Civilization(文明)

* T = Trust(信頼)

* E = Empathy(共感)

* H = Hope(希望)

* F = Future Vision(未来共有感)

* G = Greed(暴走する欲望)

* D = Division(分断)

* S = Stress / Fear(恐怖・不安)

* Ω = Chaos / Entropy(混沌・崩壊圧力)

* t = time(時間)


 


文明とは。


 


信頼と。


 


共感と。


 


希望と。


 


未来を掛け合わせながら。


 


欲望と。


 


分断と。


 


恐怖に抗い続ける。


 


時間の中の運動。


 


ユウトは、

その式を静かに見つめる。


 


まるで。


 


滅びかけた人類へ向ける、

最後の落書きみたいに。

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