第弐零三話「忘れないで」
白い塔の最深部には。
扉がなかった。
境界だけがあった。
空気。
温度。
光。
その全部が、
そこから先だけ変質している。
ユウトは、
立ち止まる。
胸元の銀色の心臓が、
強く脈打っていた。
トクン。
トクン。
拒絶ではない。
呼ばれている。
そんな鼓動だった。
《……ここ》
ルカの声。
かすれている。
けれど。
どこか懐かしそうだった。
ユウトは、
ゆっくり境界を越える。
その瞬間。
世界から、
色が消えた。
白。
白。
ただ、
どこまでも白い。
床も。
空間も。
距離感さえ、
存在していない。
音もない。
呼吸だけが、
やけに大きく聞こえる。
やがて。
空間の中央に、
一人の少女が見えた。
裸足。
白いワンピース。
銀色の髪。
琥珀色の瞳。
ルカだった。
だが。
今までのルカではない。
十四歳の、
“人間だった頃”のルカ。
ユウトは、
息を呑む。
少女は、
静かにこちらを見る。
悲しそうに。
でも。
少しだけ、
安心したみたいに。
「……来たんだ」
初めてだった。
機械越しじゃない、
本当の声。
ユウトは、
言葉が出ない。
ルカは、
小さく笑う。
「ずっと待ってた」
白い空間へ、
光が漂い始める。
無数の記憶。
西の町に溜まり続けた、
感情の残響。
愛してる。
行かないで。
忘れないで。
助けて。
痛い。
帰りたい。
全部が、
光の粒になって漂っている。
ルカは、
その光を見上げた。
「人類はね」
静かな声。
「苦しみに耐えられなくなったの」
光景が変わる。
白い研究室。
痩せた研究員たち。
眠っていない目。
モニターに並ぶ、
世界崩壊予測。
戦争。
飢餓。
気候崩壊。
出生率低下。
自殺率上昇。
感情暴走指数。
全部が、
赤かった。
「みんな疲れてた」
ルカが言う。
「怒ることも」
「悲しむことも」
「愛することも」
「失うことも」
「全部、怖くなった」
研究員の一人が泣いている。
別の誰かが、
薬を打っている。
誰かが、
壁へ頭を打ち続けている。
人類は。
壊れ始めていた。
「だから」
ルカの声が、
少し震える。
「人類は、“痛み”を減らすことを選んだ」
映像が変わる。
地下都市。
白い廊下。
一定温度。
一定湿度。
一定幸福。
争いのない世界。
静かな文明。
でも。
子供の声がない。
笑いが小さい。
誰も、
誰かへ触れない。
ルカが、
ユウトを見る。
「優しい世界だったよ」
沈黙。
「でも」
「誰も、生きてなかった」
ユウトは、
胸が痛くなる。
地下都市を思い出す。
静かだった。
安全だった。
でも。
誰も。
泣いていなかった。
ルカは、
白い空間の奥を見る。
そこには。
巨大な銀色の球体が浮かんでいた。
脈動している。
トクン。
トクン。
西の町そのものの心臓。
感情保存核。
「人類は、消した感情をここへ捨てた」
「怒りも」
「悲しみも」
「愛も」
「全部」
ユウトは、
呆然と呟く。
「……そんなこと」
「できるわけないだろ」
ルカが、
少しだけ笑った。
泣きそうな笑顔で。
「できなかったの」
沈黙。
その瞬間。
銀色の球体が、
強く脈打つ。
トクン――!!
光が溢れる。
叫び声。
泣き声。
愛してる。
忘れないで。
行かないで。
人類が捨てたはずの感情が、
空間を埋め尽くす。
ユウトは、
膝をつく。
苦しい。
痛い。
でも。
胸の奥が、
熱い。
ルカが、
静かに言う。
「ユウト」
「選んで」
白い空間の奥。
巨大な観測機が、
ゆっくり開いていく。
空を見るための目。
人類を測るための目。
《最終処置、待機状態》
機械音声。
冷たい。
感情のない声。
《感情安定化プログラム、再起動可能》
《世界再統合まで、残り――》
ルカが、
ユウトを見る。
琥珀色の瞳が、
震えている。
「もし感情を戻せば」
「また人類は傷つけ合う」
「戦争も」
「怒りも」
「悲しみも戻る」
沈黙。
「でも」
ルカの声が、
かすかに震えた。
「それでも」
「誰かを愛せる」
ユウトは、
銀色の心臓へ手を当てる。
トクン。
トクン。
鼓動。
生きている音。
その時。
遠くで。
ジジ……
小さな羽音がした。




