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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第四章「統合管理局編」

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第弐零三話「忘れないで」

白い塔の最深部には。


 


扉がなかった。


 


境界だけがあった。


 


空気。


 


温度。


 


光。


 


その全部が、

そこから先だけ変質している。


 


ユウトは、

立ち止まる。


 


胸元の銀色の心臓が、

強く脈打っていた。


 


トクン。


 


トクン。


 


拒絶ではない。


 


呼ばれている。


 


そんな鼓動だった。


 


《……ここ》


 


ルカの声。


 


かすれている。


 


けれど。


 


どこか懐かしそうだった。


 


ユウトは、

ゆっくり境界を越える。


 


その瞬間。


 


世界から、

色が消えた。


 


白。


 


白。


 


ただ、

どこまでも白い。


 


床も。


 


空間も。


 


距離感さえ、

存在していない。


 


音もない。


 


呼吸だけが、

やけに大きく聞こえる。


 


やがて。


 


空間の中央に、

一人の少女が見えた。


 


裸足。


 


白いワンピース。


 


銀色の髪。


 


琥珀色の瞳。


 


ルカだった。


 


だが。


 


今までのルカではない。


 


十四歳の、

“人間だった頃”のルカ。


 


ユウトは、

息を呑む。


 


少女は、

静かにこちらを見る。


 


悲しそうに。


 


でも。


 


少しだけ、

安心したみたいに。


 


「……来たんだ」


 


初めてだった。


 


機械越しじゃない、

本当の声。


 


ユウトは、

言葉が出ない。


 


ルカは、

小さく笑う。


 


「ずっと待ってた」


 


白い空間へ、

光が漂い始める。


 


無数の記憶。


 


西の町に溜まり続けた、

感情の残響。


 


愛してる。


 


行かないで。


 


忘れないで。


 


助けて。


 


痛い。


 


帰りたい。


 


全部が、

光の粒になって漂っている。


 


ルカは、

その光を見上げた。


 


「人類はね」


 


静かな声。


 


「苦しみに耐えられなくなったの」


 


光景が変わる。


 


白い研究室。


 


痩せた研究員たち。


 


眠っていない目。


 


モニターに並ぶ、

世界崩壊予測。


 


戦争。


 


飢餓。


 


気候崩壊。


 


出生率低下。


 


自殺率上昇。


 


感情暴走指数。


 


全部が、

赤かった。


 


「みんな疲れてた」


 


ルカが言う。


 


「怒ることも」


 


「悲しむことも」


 


「愛することも」


 


「失うことも」


 


「全部、怖くなった」


 


研究員の一人が泣いている。


 


別の誰かが、

薬を打っている。


 


誰かが、

壁へ頭を打ち続けている。


 


人類は。


 


壊れ始めていた。


 


「だから」


 


ルカの声が、

少し震える。


 


「人類は、“痛み”を減らすことを選んだ」


 


映像が変わる。


 


地下都市。


 


白い廊下。


 


一定温度。


 


一定湿度。


 


一定幸福。


 


争いのない世界。


 


静かな文明。


 


でも。


 


子供の声がない。


 


笑いが小さい。


 


誰も、

誰かへ触れない。


 


ルカが、

ユウトを見る。


 


「優しい世界だったよ」


 


沈黙。


 


「でも」


 


「誰も、生きてなかった」


 


ユウトは、

胸が痛くなる。


 


地下都市を思い出す。


 


静かだった。


 


安全だった。


 


でも。


 


誰も。


 


泣いていなかった。


 


ルカは、

白い空間の奥を見る。


 


そこには。


 


巨大な銀色の球体が浮かんでいた。


 


脈動している。


 


トクン。


 


トクン。


 


西の町そのものの心臓。


 


感情保存核。


 


「人類は、消した感情をここへ捨てた」


 


「怒りも」


 


「悲しみも」


 


「愛も」


 


「全部」


 


ユウトは、

呆然と呟く。


 


「……そんなこと」


 


「できるわけないだろ」


 


ルカが、

少しだけ笑った。


 


泣きそうな笑顔で。


 


「できなかったの」


 


沈黙。


 


その瞬間。


 


銀色の球体が、

強く脈打つ。


 


トクン――!!


 


光が溢れる。


 


叫び声。


 


泣き声。


 


愛してる。


 


忘れないで。


 


行かないで。


 


人類が捨てたはずの感情が、

空間を埋め尽くす。


 


ユウトは、

膝をつく。


 


苦しい。


 


痛い。


 


でも。


 


胸の奥が、

熱い。


 


ルカが、

静かに言う。


 


「ユウト」


 


「選んで」


 


白い空間の奥。


 


巨大な観測機が、

ゆっくり開いていく。


 


空を見るための目。


 


人類を測るための目。


 


《最終処置、待機状態》


 


機械音声。


 


冷たい。


 


感情のない声。


 


《感情安定化プログラム、再起動可能》


 


《世界再統合まで、残り――》


 


ルカが、

ユウトを見る。


 


琥珀色の瞳が、

震えている。


 


「もし感情を戻せば」


 


「また人類は傷つけ合う」


 


「戦争も」


 


「怒りも」


 


「悲しみも戻る」


 


沈黙。


 


「でも」


 


ルカの声が、

かすかに震えた。


 


「それでも」


 


「誰かを愛せる」


 


ユウトは、

銀色の心臓へ手を当てる。


 


トクン。


 


トクン。


 


鼓動。


 


生きている音。


 


その時。


 


遠くで。


 


 


ジジ……


 


 


小さな羽音がした。

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