第弐零四話「静かな死」
ジジ……
その羽音は。
白い空間のどこにも存在していなかった。
なのに。
確かに、
ユウトの耳へ届いていた。
夏の音。
遠い昔。
もう滅んだはずの季節。
観測機が、
ゆっくり開いていく。
巨大な“目”。
白い塔の中心部で、
空へ向かって瞳孔みたいに広がっていく。
《最終処置、起動》
機械音声。
感情のない声。
その瞬間。
西の町全体が、
激しく脈打った。
トクン――!!
白い空間が揺れる。
無数の光が、
一斉に観測機へ吸い込まれていく。
愛してる。
忘れないで。
行かないで。
助けて。
痛い。
帰りたい。
人類が捨てきれなかった感情。
その全部が。
世界へ逆流し始める。
ユウトの視界へ、
無数の景色が流れ込んだ。
地下都市。
白い廊下。
人々が突然、
胸を押さえて倒れる。
誰かが泣き始める。
誰かが怒鳴る。
誰かが、
初めて恐怖を知る。
子供が、
母親へ抱きついて泣いている。
老人が、
声を震わせて笑っている。
止まっていた感情が。
世界中で、
一斉に戻り始めていた。
警報。
赤いランプ。
崩壊音。
《感情抑制層、限界》
《地下都市維持率、低下》
《秩序維持不能》
白い空間が、
激しく明滅する。
ルカが、
苦しそうに胸を押さえた。
「……っ」
ユウトが駆け寄る。
「ルカ!」
彼女の身体が、
少しずつ透け始めていた。
光になって崩れている。
「どういうことだよ……!」
ルカは、
苦しそうに笑った。
「私は……感情核だから」
「封印されれば消える」
「解放されても……壊れる」
ユウトの呼吸が止まる。
《選択してください》
観測機。
冷たい音声。
空間中央へ、
二つの光が浮かび上がる。
白。
黒。
《A》
《感情再封印》
《文明安定率:99.2%》
《争い・戦争・精神崩壊リスク、大幅低下》
《人類生存予測:延長》
静かな地下都市の映像。
誰も傷つかない世界。
誰も怒らない。
誰も泣かない。
完全な安定。
《B》
《感情解放》
《文明崩壊率:不明》
《戦争・暴力・分断再発可能性:極大》
《人類絶滅リスク:上昇》
映像。
泣いている子供。
笑っている人々。
抱き合う恋人。
怒鳴り合う群衆。
夕焼け。
雨。
セミの声。
不完全な世界。
でも。
生きている世界。
ユウトは、
動けなかった。
選べない。
どちらも地獄だった。
その時。
ルカが、
小さく呟く。
「ねえ、ユウト」
ユウトは顔を上げる。
ルカは、
観測機を見つめていた。
琥珀色の瞳が、
震えている。
「私ね」
沈黙。
「本当は、怖かった」
初めてだった。
ルカが、
こんな声を出したのは。
「人類が嫌いだった」
「ずっと」
「勝手だったから」
「苦しいからって」
「痛いからって」
「全部、捨てようとしたから」
彼女の声が、
少しずつ崩れていく。
光の粒が、
頬から零れ落ちる。
涙だった。
ユウトは、
目を見開く。
ルカが。
泣いている。
「でも」
涙が、
静かに落ちる。
ぽたり。
「それでも」
彼女は笑った。
泣きながら。
壊れながら。
それでも。
確かに、
笑っていた。
「誰かを愛した記憶だけは」
「消えなかった」
沈黙。
遠くで。
ジジ……
セミの声。
観測機が、
最終起動へ入る。
《選択猶予、残り60秒》
白い光が、
空間を覆い始める。
地下都市。
西の町。
人類文明。
全部が、
今まさに分岐しようとしていた。
ルカが、
涙を流したまま言う。
「ユウト」
「あなたは――」
その先を。
彼女は、
言えなかった。




