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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第四章「統合管理局編」

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第弐零四話「静かな死」



ジジ……


 


 


その羽音は。


 


白い空間のどこにも存在していなかった。


 


なのに。


 


確かに、

ユウトの耳へ届いていた。


 


夏の音。


 


遠い昔。


 


もう滅んだはずの季節。


 


観測機が、

ゆっくり開いていく。


 


巨大な“目”。


 


白い塔の中心部で、

空へ向かって瞳孔みたいに広がっていく。


 


《最終処置、起動》


 


機械音声。


 


感情のない声。


 


その瞬間。


 


西の町全体が、

激しく脈打った。


 


トクン――!!


 


白い空間が揺れる。


 


無数の光が、

一斉に観測機へ吸い込まれていく。


 


愛してる。


 


忘れないで。


 


行かないで。


 


助けて。


 


痛い。


 


帰りたい。


 


人類が捨てきれなかった感情。


 


その全部が。


 


世界へ逆流し始める。


 


ユウトの視界へ、

無数の景色が流れ込んだ。


 


地下都市。


 


白い廊下。


 


人々が突然、

胸を押さえて倒れる。


 


誰かが泣き始める。


 


誰かが怒鳴る。


 


誰かが、

初めて恐怖を知る。


 


子供が、

母親へ抱きついて泣いている。


 


老人が、

声を震わせて笑っている。


 


止まっていた感情が。


 


世界中で、

一斉に戻り始めていた。


 


警報。


 


赤いランプ。


 


崩壊音。


 


《感情抑制層、限界》


 


《地下都市維持率、低下》


 


《秩序維持不能》


 


白い空間が、

激しく明滅する。


 


ルカが、

苦しそうに胸を押さえた。


 


「……っ」


 


ユウトが駆け寄る。


 


「ルカ!」


 


彼女の身体が、

少しずつ透け始めていた。


 


光になって崩れている。


 


「どういうことだよ……!」


 


ルカは、

苦しそうに笑った。


 


「私は……感情核だから」


 


「封印されれば消える」


 


「解放されても……壊れる」


 


ユウトの呼吸が止まる。


 


《選択してください》


 


観測機。


 


冷たい音声。


 


空間中央へ、

二つの光が浮かび上がる。


 


白。


 


黒。


 


《A》


 


《感情再封印》


 


《文明安定率:99.2%》


 


《争い・戦争・精神崩壊リスク、大幅低下》


 


《人類生存予測:延長》


 


静かな地下都市の映像。


 


誰も傷つかない世界。


 


誰も怒らない。


 


誰も泣かない。


 


完全な安定。


 


《B》


 


《感情解放》


 


《文明崩壊率:不明》


 


《戦争・暴力・分断再発可能性:極大》


 


《人類絶滅リスク:上昇》


 


映像。


 


泣いている子供。


 


笑っている人々。


 


抱き合う恋人。


 


怒鳴り合う群衆。


 


夕焼け。


 


雨。


 


セミの声。


 


不完全な世界。


 


でも。


 


生きている世界。


 


ユウトは、

動けなかった。


 


選べない。


 


どちらも地獄だった。


 


その時。


 


ルカが、

小さく呟く。


 


「ねえ、ユウト」


 


ユウトは顔を上げる。


 


ルカは、

観測機を見つめていた。


 


琥珀色の瞳が、

震えている。


 


「私ね」


 


沈黙。


 


「本当は、怖かった」


 


初めてだった。


 


ルカが、

こんな声を出したのは。


 


「人類が嫌いだった」


 


「ずっと」


 


「勝手だったから」


 


「苦しいからって」


 


「痛いからって」


 


「全部、捨てようとしたから」


 


彼女の声が、

少しずつ崩れていく。


 


光の粒が、

頬から零れ落ちる。


 


涙だった。


 


ユウトは、

目を見開く。


 


ルカが。


 


泣いている。


 


「でも」


 


涙が、

静かに落ちる。


 


ぽたり。


 


「それでも」


 


彼女は笑った。


 


泣きながら。


 


壊れながら。


 


それでも。


 


確かに、

笑っていた。


 


「誰かを愛した記憶だけは」


 


「消えなかった」


 


沈黙。


 


遠くで。


 


 


ジジ……


 


 


セミの声。


 


観測機が、

最終起動へ入る。


 


《選択猶予、残り60秒》


 


白い光が、

空間を覆い始める。


 


地下都市。


 


西の町。


 


人類文明。


 


全部が、

今まさに分岐しようとしていた。


 


ルカが、

涙を流したまま言う。


 


「ユウト」


 


「あなたは――」


 


その先を。


 


彼女は、

言えなかった。

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