第弐零二話「感情を消した日」
白い塔の内部は。
静かだった。
静かすぎた。
ユウトは、
無数の白いケーブルの間を歩いていた。
床も。
壁も。
天井も。
全部が、
白かった。
まるで。
巨大な病院の中へ、
世界そのものが閉じ込められてしまったみたいだった。
遠くで。
トクン。
トクン。
塔が脈打っている。
いや。
西の町全体が、
この塔を中心に呼吸している。
ユウトは、
胸元の銀色の心臓を押さえた。
鼓動が同期している。
離れない。
まるで、
最初からここへ戻るために作られたみたいに。
《……上》
ルカの声。
弱い。
だが。
少しずつ、
人間の声に近づいていた。
ユウトは、
塔の中央シャフトを見上げる。
果てが見えない。
白い光だけが、
ずっと上へ続いている。
その時。
壁面のモニターが、
突然点灯した。
ノイズ。
砂嵐。
やがて。
一人の男が映る。
若い頃の祖父だった。
疲れ切った目。
白衣。
伸びた髪。
でも。
ユウトが知っている祖父より、
ずっと怒っていた。
『記録番号:最終観測ログ』
『西暦二〇六九年』
『感情安定化計画、最終段階』
祖父は、
しばらく黙っていた。
何かを迷うみたいに。
やがて。
掠れた声で言う。
『……人類は、限界だった』
映像が切り替わる。
暴動。
火災。
群衆。
泣き声。
銃声。
黒い雨。
空を覆う菌糸。
海へ沈む都市。
飢え。
分断。
終わらない戦争。
『誰も、他人を信じられなくなった』
『誰も、未来を共有できなくなった』
『人類協力モデルは崩壊した』
光の数式が、
空中へ浮かび上がる。
Civilization = ((T + E + F) - (G + D + S)) / Chaos
祖父が続ける。
『Tは信頼』
『Eは共感』
『Fは未来共有感』
『Gは欲望』
『Dは分断』
『Sは恐怖』
『そしてChaosは、文明全体の崩壊圧力』
映像の中。
数式の分母が、
ゆっくり膨張していく。
Chaos。
Chaos。
Chaos。
やがて。
式全体へ、
黒い亀裂が走った。
『文明は、限界を超えた』
『だから我々は――』
祖父が、
そこで言葉を止める。
苦しそうに。
泣きそうに。
『感情を、減らすことを選んだ』
沈黙。
ユウトは動けない。
祖父の目が、
こちらを見る。
画面越しなのに。
まるで。
未来のユウトを、
最初から知っていたみたいに。
『怒りを減らした』
『悲しみを減らした』
『恐怖を減らした』
『痛みを減らした』
『愛さえも、減らした』
地下都市の映像。
白い廊下。
一定温度。
一定湿度。
一定幸福。
誰も怒鳴らない。
誰も泣かない。
誰も傷つけない。
完璧。
完璧すぎる世界。
祖父が、
静かに言う。
『……だが』
『感情を減らした人類は』
『もう、“未来”を産めなかった』
映像が乱れる。
ノイズ。
その瞬間。
別の声が割り込む。
女の声。
若い。
でも、
震えている。
『博士』
『もう止められません』
『統合管理局が、感情核の実装を開始します』
ユウトの呼吸が止まる。
ルカ。
銀色の心臓。
全部が繋がる。
祖父が、
激しく机を叩く。
『人間の感情を、一つへ統合する気か!?』
『そんなもの、人類じゃない!』
ノイズ。
警報。
赤いランプ。
そして。
映像の奥。
白い部屋。
小さな少女。
銀色の光。
泣いている。
ルカ。
祖父が、
掠れた声で呟く。
『……すまない』
初めてだった。
ユウトは、
祖父が泣くところを見た。
『本当は』
『こんな未来にしたかったわけじゃない』
映像が崩れる。
白いノイズ。
その中で。
最後に、
祖父の声だけが残った。
『ユウト』
ユウトの目が見開く。
『もしお前が、そこへ辿り着いたなら』
『頼む』
沈黙。
遠くで。
塔が脈打つ。
トクン。
トクン。
祖父は、
泣きそうな顔で笑った。
『人類を、もう一度だけ』
『“痛み”へ戻してくれ』




