第十八話「白い塔」
西の町には、
風がなかった。
空気は動いている。
だが。
何かが、
ずっと止まったままだった。
ユウトは、
白い菌糸に覆われた道路を歩いていた。
踏むたび。
靴の裏で、
微かな感触が返ってくる。
柔らかい。
まるで。
街そのものが、
肉になりかけているみたいだった。
遠くで。
トクン。
街が脈打つ。
その鼓動に合わせるように。
胸元の銀色の心臓が、
淡く明滅した。
トクン。
トクン。
ルカは、
もうほとんど喋らなかった。
時折、
微かなノイズが混じるだけ。
《……近い》
その声だけが、
かろうじて残っている。
ユウトは、
空を見上げる。
色を失った空。
昼なのか。
夕方なのか。
もう分からない。
そこには、
無数の光が漂っていた。
記憶。
誰かが生きていた残響。
その一つが、
ユウトの肩をすり抜ける。
――おとうさん。
幼い声。
ユウトは振り返る。
誰もいない。
ただ。
崩れた歩道橋の上で。
白いワンピースだけが、
風もないのに揺れていた。
ユウトは、
目を逸らした。
見てはいけない気がした。
この街では。
“残ってしまった感情”に、
形がある。
歩き続ける。
崩れた高架。
焼け落ちたビル。
途中。
黒く焦げた三輪車が、
道路脇へ転がっていた。
半分だけ溶けている。
なのに。
赤い塗装だけが、
妙に鮮やかだった。
ユウトの足が止まる。
触れようとして。
やめた。
その瞬間。
頭の奥へ、
知らない景色が流れ込む。
白い閃光。
熱。
叫び声。
皮膚の焼ける臭い。
空が、
黒く崩れていく。
「――っ!」
ユウトは思わず膝をついた。
呼吸ができない。
知らないはずの記憶。
でも。
胸が、
知っている。
《……ここでは、触れた記憶が流れ込む》
ルカの声。
遠い。
水の底みたいに遠い。
《西の町は、“感情を保存する場所”だから》
ユウトは、
荒い呼吸のまま顔を上げる。
白い塔。
さっきより近い。
近づくほど、
異様さがはっきりしてくる。
綺麗すぎた。
この街で、
そこだけ時間が止まっている。
菌糸も。
腐食も。
崩壊もない。
純白。
ただ白い。
まるで、
巨大な墓標だった。
その時。
道路脇の建物から、
人影が現れる。
ユウトは身構えた。
だが。
それは、
人間ではなかった。
輪郭が崩れている。
ノイズみたいに揺れている。
顔が定まらない。
男。
女。
老人。
子供。
全部が混ざっている。
影は、
ゆっくりユウトを見る。
そして。
口だけが、
不自然に開いた。
――まだ、熱い。
声が漏れる。
次の瞬間。
影の腕が崩れた。
白い粒子になって、
空へ散っていく。
だが。
消えない。
空へ溶けてもなお。
感情だけが、
街に残り続けている。
ユウトは、
震える声で言った。
「……なんなんだよ、これ」
沈黙。
やがて。
ルカが、
静かに答える。
《人類が、“忘れること”に失敗した場所》
遠くで。
トクン。
巨大な鼓動。
その瞬間。
白い塔の上空で、
何かが光った。
ユウトは目を細める。
空。
塔の最上部。
そこに。
巨大な観測機みたいなものが、
空へ向けられていた。
壊れている。
なのに。
今も、
何かを観測し続けている。
ユウトは、
無意識に呟く。
「……何を見てるんだ」
その瞬間だった。
空を漂っていた無数の光が、
一斉に塔へ向かって流れ始める。
笑い声。
泣き声。
怒鳴り声。
愛してる。
行かないで。
忘れないで。
全部が、
白い塔へ吸い込まれていく。
ユウトは、
息を呑む。
それは音じゃなかった。
叫びでもない。
もっと古い。
人間が、
人間だった頃の残響。
その時。
胸元の銀色の心臓が、
強く脈打った。
トクン。
トクン。
トクン。
同期している。
街と。
塔と。
漂う感情と。
全部。
ユウトは、
初めて気づく。
この街は。
感情を保存しているんじゃない。
終われなかった感情を、
永遠に観測し続けている。
そして。
塔の最上部から。
黒い雨が、
一滴だけ落ちた。
ぽたり。




