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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第三章「西の町編」

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第十八話「白い塔」

西の町には、

風がなかった。


 


空気は動いている。


 


だが。


 


何かが、

ずっと止まったままだった。


 


ユウトは、

白い菌糸に覆われた道路を歩いていた。


 


踏むたび。


 


靴の裏で、

微かな感触が返ってくる。


 


柔らかい。


 


まるで。


 


街そのものが、

肉になりかけているみたいだった。


 


遠くで。


 


 


トクン。


 


 


街が脈打つ。


 


その鼓動に合わせるように。


 


胸元の銀色の心臓が、

淡く明滅した。


 


トクン。


 


トクン。


 


ルカは、

もうほとんど喋らなかった。


 


時折、

微かなノイズが混じるだけ。


 


《……近い》


 


その声だけが、

かろうじて残っている。


 


ユウトは、

空を見上げる。


 


色を失った空。


 


昼なのか。


 


夕方なのか。


 


もう分からない。


 


そこには、

無数の光が漂っていた。


 


記憶。


 


誰かが生きていた残響。


 


その一つが、

ユウトの肩をすり抜ける。


 


 


――おとうさん。


 


 


幼い声。


 


ユウトは振り返る。


 


誰もいない。


 


ただ。


 


崩れた歩道橋の上で。


 


白いワンピースだけが、

風もないのに揺れていた。


 


ユウトは、

目を逸らした。


 


見てはいけない気がした。


 


この街では。


 


“残ってしまった感情”に、

形がある。


 


歩き続ける。


 


崩れた高架。


 


焼け落ちたビル。


 


途中。


 


黒く焦げた三輪車が、

道路脇へ転がっていた。


 


半分だけ溶けている。


 


なのに。


 


赤い塗装だけが、

妙に鮮やかだった。


 


ユウトの足が止まる。


 


触れようとして。


 


やめた。


 


その瞬間。


 


頭の奥へ、

知らない景色が流れ込む。


 


白い閃光。


 


熱。


 


叫び声。


 


皮膚の焼ける臭い。


 


空が、

黒く崩れていく。


 


「――っ!」


 


ユウトは思わず膝をついた。


 


呼吸ができない。


 


知らないはずの記憶。


 


でも。


 


胸が、

知っている。


 


《……ここでは、触れた記憶が流れ込む》


 


ルカの声。


 


遠い。


 


水の底みたいに遠い。


 


《西の町は、“感情を保存する場所”だから》


 


ユウトは、

荒い呼吸のまま顔を上げる。


 


白い塔。


 


さっきより近い。


 


近づくほど、

異様さがはっきりしてくる。


 


綺麗すぎた。


 


この街で、

そこだけ時間が止まっている。


 


菌糸も。


 


腐食も。


 


崩壊もない。


 


純白。


 


ただ白い。


 


まるで、

巨大な墓標だった。


 


その時。


 


道路脇の建物から、

人影が現れる。


 


ユウトは身構えた。


 


だが。


 


それは、

人間ではなかった。


 


輪郭が崩れている。


 


ノイズみたいに揺れている。


 


顔が定まらない。


 


男。


 


女。


 


老人。


 


子供。


 


全部が混ざっている。


 


影は、

ゆっくりユウトを見る。


 


そして。


 


口だけが、

不自然に開いた。


 


 


――まだ、熱い。


 


 


声が漏れる。


 


次の瞬間。


 


影の腕が崩れた。


 


白い粒子になって、

空へ散っていく。


 


だが。


 


消えない。


 


空へ溶けてもなお。


 


感情だけが、

街に残り続けている。


 


ユウトは、

震える声で言った。


 


「……なんなんだよ、これ」


 


沈黙。


 


やがて。


 


ルカが、

静かに答える。


 


《人類が、“忘れること”に失敗した場所》


 


遠くで。


 


 


トクン。


 


 


巨大な鼓動。


 


その瞬間。


 


白い塔の上空で、

何かが光った。


 


ユウトは目を細める。


 


空。


 


塔の最上部。


 


そこに。


 


巨大な観測機みたいなものが、

空へ向けられていた。


 


壊れている。


 


なのに。


 


今も、

何かを観測し続けている。


 


ユウトは、

無意識に呟く。


 


「……何を見てるんだ」


 


その瞬間だった。


 


空を漂っていた無数の光が、

一斉に塔へ向かって流れ始める。


 


笑い声。


 


泣き声。


 


怒鳴り声。


 


愛してる。


 


行かないで。


 


忘れないで。


 


全部が、

白い塔へ吸い込まれていく。


 


ユウトは、

息を呑む。


 


それは音じゃなかった。


 


叫びでもない。


 


もっと古い。


 


人間が、

人間だった頃の残響。


 


その時。


 


胸元の銀色の心臓が、

強く脈打った。


 


トクン。


 


トクン。


 


トクン。


 


同期している。


 


街と。


 


塔と。


 


漂う感情と。


 


全部。


 


ユウトは、

初めて気づく。


 


この街は。


 


感情を保存しているんじゃない。


 


終われなかった感情を、

永遠に観測し続けている。


 


そして。


 


塔の最上部から。


 


黒い雨が、

一滴だけ落ちた。


 


ぽたり。

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