第十七話「終われなかった夏」
黒雨は、
もう降っていなかった。
気づけば、
列車の外から“音”そのものが消えていた。
レールの軋みも。
風も。
地下水の滴る音も。
何もない。
静か、というより。
世界がまだ「音」を思い出していないようだった。
ユウトは、
白く染まった窓を見つめていた。
外は見えない。
だが、
確実に何かが近づいている。
列車ではない。
景色でもない。
“場所そのもの”が、
こちらへ寄ってきている。
《……着く》
ルカの声。
かすれていた。
ユウトは初めて、
彼女が怯えていることに気づく。
「ルカ」
返事はない。
代わりに、
胸元の銀色の心臓が小さく明滅した。
トクン。
トクン。
機械音じゃない。
生き物みたいな鼓動。
その時。
列車が止まる。
いや。
“止まったという概念”だけが、
後から追いついた。
扉が開く。
音はない。
暗闇だけが、
ゆっくり左右へ割れていく。
その向こうに、
街があった。
ユウトは動けなかった。
西の町。
そこは、
都市には見えなかった。
巨大な廃墟。
崩壊したビル群。
黒雨で腐食した高架。
だが。
それだけじゃない。
街全体が、
微かに脈動していた。
トクン。
トクン。
まるで。
都市そのものが、
巨大な心臓になってしまったみたいだった。
空は灰色でも黒でもない。
“色を失った空”。
そこへ、
無数の光が漂っている。
ホログラムではない。
雪でもない。
記憶だった。
子供の笑い声。
誰かの怒鳴り声。
遠い夏祭りのざわめき。
途切れた告白。
名前を呼ぶ声。
全部が、
光の粒になって空中を漂っている。
ユウトは、
喉が詰まる。
「……なんだよ、この街」
《捨てられなかったもの》
ルカが静かに言う。
《人類が、最後まで処理できなかった感情の残骸》
風が吹く。
その瞬間。
光の粒が、
一斉にユウトの横を通り過ぎる。
笑い声。
泣き声。
悲鳴。
愛してる。
助けて。
行かないで。
全部が、
一瞬だけ耳の奥を通過する。
ユウトは思わず耳を塞いだ。
「っ……!」
痛い。
頭じゃない。
胸の奥が痛む。
地下都市では感じたことのない痛み。
その時だった。
遠くで。
ジジ……
小さな羽音が響く。
ユウトは顔を上げる。
錆びた信号機。
その上に、
何かが止まっていた。
セミ。
いや。
セミだったもの。
羽は半分崩れ。
黒雨菌糸が腹部を侵食している。
それでも。
まだ鳴いていた。
ジジ……
ジジジ……
《ここでは、“消えたもの”は終われない》
ルカの声が、
わずかに震える。
《全部、残るの》
ユウトは、
ゆっくり街を見る。
廃墟の壁。
そこには、
大量の手形が残されていた。
黒く。
焼け焦げたみたいに。
まるで、
誰かが壁の向こうへ逃げようとした痕跡。
そして。
その中央に、
古びた文字が刻まれていた。
『感情保存特区』
ユウトの呼吸が止まる。
その瞬間。
街の奥で、
巨大な影が動いた。
ビルとビルの隙間。
あり得ない高さ。
人型。
だが輪郭が崩れている。
ノイズみたいに、
形が定まらない。
ユウトは息を呑む。
「あれは……」
ルカが、
小さく呟く。
《失敗した人類》
影がこちらを見る。
顔はない。
なのに。
“泣いている”ことだけが分かった。
次の瞬間。
街全体が、
ゆっくり脈打った。
トクン。
ユウトの胸元の銀色の心臓も、
同時に鼓動する。
トクン。
トクン。
同期。
その瞬間。
街の最奥。
黒い霧の向こうに、
微かな光が見えた。
塔だった。
空へ突き刺さる、
一本の白い塔。
ルカが言う。
《……あそこに、全部ある》
ユウトは、
その塔を見つめる。
理由はまだ分からない。
けれど。
もう戻れないことだけは、
はっきり分かっていた。




