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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第三章「西の町編」

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第十七話「終われなかった夏」

黒雨は、

もう降っていなかった。


 


気づけば、

列車の外から“音”そのものが消えていた。


 


レールの軋みも。


 


風も。


 


地下水の滴る音も。


 


何もない。


 


静か、というより。


 


世界がまだ「音」を思い出していないようだった。


 


ユウトは、

白く染まった窓を見つめていた。


 


外は見えない。


 


だが、

確実に何かが近づいている。


 


列車ではない。


 


景色でもない。


 


“場所そのもの”が、

こちらへ寄ってきている。


 


《……着く》


 


ルカの声。


 


かすれていた。


 


ユウトは初めて、

彼女が怯えていることに気づく。


 


「ルカ」


 


返事はない。


 


代わりに、

胸元の銀色の心臓が小さく明滅した。


 


トクン。


 


トクン。


 


機械音じゃない。


 


生き物みたいな鼓動。


 


その時。


 


列車が止まる。


 


いや。


 


“止まったという概念”だけが、

後から追いついた。


 


扉が開く。


 


音はない。


 


暗闇だけが、

ゆっくり左右へ割れていく。


 


その向こうに、

街があった。


 


ユウトは動けなかった。


 


西の町。


 


そこは、

都市には見えなかった。


 


巨大な廃墟。


 


崩壊したビル群。


 


黒雨で腐食した高架。


 


だが。


 


それだけじゃない。


 


街全体が、

微かに脈動していた。


 


トクン。


 


トクン。


 


まるで。


 


都市そのものが、

巨大な心臓になってしまったみたいだった。


 


空は灰色でも黒でもない。


 


“色を失った空”。


 


そこへ、

無数の光が漂っている。


 


ホログラムではない。


 


雪でもない。


 


記憶だった。


 


子供の笑い声。


 


誰かの怒鳴り声。


 


遠い夏祭りのざわめき。


 


途切れた告白。


 


名前を呼ぶ声。


 


全部が、

光の粒になって空中を漂っている。


 


ユウトは、

喉が詰まる。


 


「……なんだよ、この街」


 


《捨てられなかったもの》


 


ルカが静かに言う。


 


《人類が、最後まで処理できなかった感情の残骸》


 


風が吹く。


 


その瞬間。


 


光の粒が、

一斉にユウトの横を通り過ぎる。


 


笑い声。


 


泣き声。


 


悲鳴。


 


愛してる。


 


助けて。


 


行かないで。


 


全部が、

一瞬だけ耳の奥を通過する。


 


ユウトは思わず耳を塞いだ。


 


「っ……!」


 


痛い。


 


頭じゃない。


 


胸の奥が痛む。


 


地下都市では感じたことのない痛み。


 


その時だった。


 


遠くで。


 


ジジ……


 


小さな羽音が響く。


 


ユウトは顔を上げる。


 


錆びた信号機。


 


その上に、

何かが止まっていた。


 


セミ。


 


いや。


 


セミだったもの。


 


羽は半分崩れ。


 


黒雨菌糸が腹部を侵食している。


 


それでも。


 


まだ鳴いていた。


 


ジジ……


 


ジジジ……


 


《ここでは、“消えたもの”は終われない》


 


ルカの声が、

わずかに震える。


 


《全部、残るの》


 


ユウトは、

ゆっくり街を見る。


 


廃墟の壁。


 


そこには、

大量の手形が残されていた。


 


黒く。


 


焼け焦げたみたいに。


 


まるで、

誰かが壁の向こうへ逃げようとした痕跡。


 


そして。


 


その中央に、

古びた文字が刻まれていた。


 


 


『感情保存特区』


 


 


ユウトの呼吸が止まる。


 


その瞬間。


 


街の奥で、

巨大な影が動いた。


 


ビルとビルの隙間。


 


あり得ない高さ。


 


人型。


 


だが輪郭が崩れている。


 


ノイズみたいに、

形が定まらない。


 


ユウトは息を呑む。


 


「あれは……」


 


ルカが、

小さく呟く。


 


《失敗した人類》


 


影がこちらを見る。


 


顔はない。


 


なのに。


 


“泣いている”ことだけが分かった。


 


次の瞬間。


 


街全体が、

ゆっくり脈打った。


 


トクン。


 


ユウトの胸元の銀色の心臓も、

同時に鼓動する。


 


トクン。


 


トクン。


 


同期。


 


その瞬間。


 


街の最奥。


 


黒い霧の向こうに、

微かな光が見えた。


 


塔だった。


 


空へ突き刺さる、

一本の白い塔。


 


ルカが言う。


 


《……あそこに、全部ある》


 


ユウトは、

その塔を見つめる。


 


理由はまだ分からない。


 


けれど。


 


もう戻れないことだけは、

はっきり分かっていた。

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