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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第三章「西の町編」

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第十六話「接触」

列車は、進んでいるのではなかった。


 


ただ、「西」という方向へ固定されたまま、

世界の方だけがゆっくり剥がれていく。


 


揺れはない。


 


加速もない。


 


時間だけが、

少しずつ薄くなっていく。


 


ユウトは窓の前に立っていた。


 


外は見えない。


 


だが、

“見えない何か”だけが流れている。


 


黒雨でもない。


 


光でもない。


 


記録になる前の現実。


 


そんなものだった。


 


《ユウト》


 


声。


 


ルカだった。


 


列車のどこにも存在していない声。


 


それでも確かに、

ここにいる。


 


《ここから先は、“触れる区間”になる》


 


「……触れる?」


 


ユウトは小さく聞き返した。


 


《西の町は、“見る場所”じゃない》


 


《接触する場所》


 


その瞬間。


 


窓が、

わずかに波打った。


 


ガラスではない。


 


膜だった。


 


呼吸するみたいに、

ゆっくり脈動している。


 


ユウトは、

無意識に一歩近づく。


 


その時だった。


 


――ジジ……


 


音。


 


小さすぎる羽音。


 


ユウトの呼吸が止まる。


 


「……セミ?」


 


あり得ない。


 


もう、

どこにも存在していないはずだった。


 


ジジ……


 


ジジジ……


 


音が増える。


 


だが、

増えたわけじゃない。


 


昔そこにあった音が、

遅れて届いているだけだった。


 


窓の向こうが、

ほんの少しだけ揺らぐ。


 


そこには空がなかった。


 


空の代わりになろうとして、

失敗した何かだけが広がっている。


 


黒雨より静かで。


 


地下より重い。


 


ユウトは、

喉の奥が冷えるのを感じた。


 


「……ここが、西の町なのか」


 


返事はない。


 


ただ、

列車が微かに軋む。


 


その震えだけが、

何かを肯定していた。


 


その時。


 


コン。


 


軽い音がした。


 


軽すぎて、

逆に恐ろしい音だった。


 


ユウトは窓を見る。


 


そこに、

“手”があった。


 


人間の手ではない。


 


形だけが、

人間を真似している。


 


指の数が違う。


 


関節の位置も違う。


 


まるで。


 


「人間を思い出そうとしている何か」。


 


その手が、

窓をゆっくりなぞる。


 


触れていない。


 


なのに、

冷たさだけが入ってくる。


 


《……やめて》


 


ルカの声が揺れた。


 


初めてだった。


 


ただの音声じゃない。


 


感情そのものが、

混ざっていた。


 


ユウトは気づく。


 


これは、

襲おうとしているんじゃない。


 


壊そうとしているわけでもない。


 


ただ。


 


“触れたい”だけだ。


 


その瞬間。


 


窓の向こうに、

景色が一瞬だけ映る。


 


都市。


 


だが、

都市ではない。


 


建物が歪んでいる。


 


溶けている。


 


積み重なっているのは、

コンクリートじゃない。


 


誰かの記憶だった。


 


笑い声。


 


泣き声。


 


怒声。


 


愛してる、と言いかけた誰かの声。


 


全部が、

空気の中に沈殿している。


 


ユウトは、

息をするのを忘れた。


 


「……なんだよ、これ」


 


ルカは答えない。


 


代わりに。


 


列車が、

ほんの少しだけ速度を変える。


 


いや。


 


違う。


 


西の町の方が、

近づいてきている。


 


ユウトは理解する。


 


ここは、

“行く場所”じゃない。


 


近づいた瞬間、

こちら側まで変質していく場所だ。


 


ジジ……


 


また、

セミの音。


 


今度は、

はっきり聞こえた。


 


だが。


 


それは一匹の声じゃない。


 


“かつて存在した夏”そのものだった。


 


ユウトは目を閉じる。


 


それでも、

音は消えない。


 


むしろ近づいてくる。


 


《ユウト》


 


ルカが静かに言う。


 


《ここから先は、“意味”が壊れる》


 


その言葉と同時に。


 


窓が、

完全に白く染まる。


 


曇ったんじゃない。


 


“外側”が、

こちらへ滲み始めたのだった。


 


ユウトは、

一歩だけ後ろへ下がる。


 


それでも、

もう遅い。


 


西の町は、

まだ到着していない。


 


なのに。


 


もう既に、

始まっていた。

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