第十六話「接触」
列車は、進んでいるのではなかった。
ただ、「西」という方向へ固定されたまま、
世界の方だけがゆっくり剥がれていく。
揺れはない。
加速もない。
時間だけが、
少しずつ薄くなっていく。
ユウトは窓の前に立っていた。
外は見えない。
だが、
“見えない何か”だけが流れている。
黒雨でもない。
光でもない。
記録になる前の現実。
そんなものだった。
《ユウト》
声。
ルカだった。
列車のどこにも存在していない声。
それでも確かに、
ここにいる。
《ここから先は、“触れる区間”になる》
「……触れる?」
ユウトは小さく聞き返した。
《西の町は、“見る場所”じゃない》
《接触する場所》
その瞬間。
窓が、
わずかに波打った。
ガラスではない。
膜だった。
呼吸するみたいに、
ゆっくり脈動している。
ユウトは、
無意識に一歩近づく。
その時だった。
――ジジ……
音。
小さすぎる羽音。
ユウトの呼吸が止まる。
「……セミ?」
あり得ない。
もう、
どこにも存在していないはずだった。
ジジ……
ジジジ……
音が増える。
だが、
増えたわけじゃない。
昔そこにあった音が、
遅れて届いているだけだった。
窓の向こうが、
ほんの少しだけ揺らぐ。
そこには空がなかった。
空の代わりになろうとして、
失敗した何かだけが広がっている。
黒雨より静かで。
地下より重い。
ユウトは、
喉の奥が冷えるのを感じた。
「……ここが、西の町なのか」
返事はない。
ただ、
列車が微かに軋む。
その震えだけが、
何かを肯定していた。
その時。
コン。
軽い音がした。
軽すぎて、
逆に恐ろしい音だった。
ユウトは窓を見る。
そこに、
“手”があった。
人間の手ではない。
形だけが、
人間を真似している。
指の数が違う。
関節の位置も違う。
まるで。
「人間を思い出そうとしている何か」。
その手が、
窓をゆっくりなぞる。
触れていない。
なのに、
冷たさだけが入ってくる。
《……やめて》
ルカの声が揺れた。
初めてだった。
ただの音声じゃない。
感情そのものが、
混ざっていた。
ユウトは気づく。
これは、
襲おうとしているんじゃない。
壊そうとしているわけでもない。
ただ。
“触れたい”だけだ。
その瞬間。
窓の向こうに、
景色が一瞬だけ映る。
都市。
だが、
都市ではない。
建物が歪んでいる。
溶けている。
積み重なっているのは、
コンクリートじゃない。
誰かの記憶だった。
笑い声。
泣き声。
怒声。
愛してる、と言いかけた誰かの声。
全部が、
空気の中に沈殿している。
ユウトは、
息をするのを忘れた。
「……なんだよ、これ」
ルカは答えない。
代わりに。
列車が、
ほんの少しだけ速度を変える。
いや。
違う。
西の町の方が、
近づいてきている。
ユウトは理解する。
ここは、
“行く場所”じゃない。
近づいた瞬間、
こちら側まで変質していく場所だ。
ジジ……
また、
セミの音。
今度は、
はっきり聞こえた。
だが。
それは一匹の声じゃない。
“かつて存在した夏”そのものだった。
ユウトは目を閉じる。
それでも、
音は消えない。
むしろ近づいてくる。
《ユウト》
ルカが静かに言う。
《ここから先は、“意味”が壊れる》
その言葉と同時に。
窓が、
完全に白く染まる。
曇ったんじゃない。
“外側”が、
こちらへ滲み始めたのだった。
ユウトは、
一歩だけ後ろへ下がる。
それでも、
もう遅い。
西の町は、
まだ到着していない。
なのに。
もう既に、
始まっていた。




