第十五話「西行列車」
黒雨は、音ではなかった。
それは地下そのものの呼吸だった。
――すぅ。
――はぁ。
その合間に、ぽたり、と何かが落ちる。
水でもない。記録でもない。
ただ“世界が劣化していく音”だけが残っている。
ユウトは喫茶《蝉時雨》を出た。
振り返らなかった。
振り返ると、そこにまだ“意味”が残ってしまう気がした。
地下通路は、すでに通路ではなかった。
方向はない。
上も下もない。
ただひとつ、「西」という感覚だけが残っている。
やがて、遠くから音が来る。
カン……カン……
規則正しいはずの音なのに、どこか歪んでいる。
それは近づいてきた。
列車だった。
だが、それは“列車の形をしている何か”だった。
境界が曖昧で、輪郭は揺れている。
走っているというより、
「移動という現象そのものが通過している」
ようだった。
扉が開く。
音はしない。
最初から開いていたものを、世界が後から理解しただけだった。
《乗って》
声がした。
ルカの声だった。
だが、それは耳ではなかった。
列車そのものが、彼女の声を持っている。
ユウトは一度だけ止まる。
理由は考えない。
考えた瞬間、ここには来られなくなる気がした。
一歩。
列車に足を踏み入れる。
その瞬間。
音が消える。
黒雨も。
地下の呼吸も。
セミの残響も。
世界が一度だけ「記録」になる。
そして再び、動き出す。
列車の中は静かだった。
誰もいない。
座席はあるが、意味はない。
窓はあるが、外はない。
ただ「流れている何か」だけがある。
ユウトは座らない。
立ったまま、窓に触れそうになってやめる。
そこは外ではなかった。
すでに内側だった。
そのとき、声がした。
《ユウト》
ルカの声。
だが、場所はない。
列車全体がその声だった。
《西の町には、三つだけ残っているものがある》
列車が動き出す。
揺れはない。
加速もない。
ただ、世界だけが後ろへ剥がれていく。
《黒雨の“始まり”》
窓の外に、何もないものが流れていく。
それは空白ですらなく、「空白になる前の状態」だった。
《感情を捨てた“理由”》
ユウトの胸の奥が、かすかに痛む。
痛みなのか記憶なのかも分からない。
列車は止まらない。
止まるという概念が、もう存在していない。
そして――
ルカは言う。
《人間が最後に手放したもの。触れた瞬間、もう戻れないもの》
その言葉だけが、空間に残る。
ユウトは窓を見る。
そこには何もない。
だが「何もない」という状態だけが、確かに流れている。
黒雨でもない。
光でもない。
ただ、未定義の時間だった。
ユウトは息を吐く。
「……行くのか」
返事はない。
列車はただ進む。
どこへ行くのかもまだ決まっていない場所へ。
それでも、もう止まれない。




