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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第二章「地上汚染区域編」

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第十五話「西行列車」

黒雨は、音ではなかった。


 


それは地下そのものの呼吸だった。


 


――すぅ。


 


――はぁ。


 


その合間に、ぽたり、と何かが落ちる。


 


水でもない。記録でもない。


 


ただ“世界が劣化していく音”だけが残っている。


 


ユウトは喫茶《蝉時雨》を出た。


 


振り返らなかった。


 


振り返ると、そこにまだ“意味”が残ってしまう気がした。


 


地下通路は、すでに通路ではなかった。


 


方向はない。


 


上も下もない。


 


ただひとつ、「西」という感覚だけが残っている。


 


やがて、遠くから音が来る。


 


カン……カン……


 


規則正しいはずの音なのに、どこか歪んでいる。


 


それは近づいてきた。


 


列車だった。


 


だが、それは“列車の形をしている何か”だった。


 


境界が曖昧で、輪郭は揺れている。


 


走っているというより、


「移動という現象そのものが通過している」


ようだった。


 


扉が開く。


 


音はしない。


 


最初から開いていたものを、世界が後から理解しただけだった。


 


《乗って》


 


声がした。


 


ルカの声だった。


 


だが、それは耳ではなかった。


 


列車そのものが、彼女の声を持っている。


 


ユウトは一度だけ止まる。


 


理由は考えない。


 


考えた瞬間、ここには来られなくなる気がした。


 


一歩。


 


列車に足を踏み入れる。


 


その瞬間。


 


音が消える。


 


黒雨も。


 


地下の呼吸も。


 


セミの残響も。


 


世界が一度だけ「記録」になる。


 


そして再び、動き出す。


 


列車の中は静かだった。


 


誰もいない。


 


座席はあるが、意味はない。


 


窓はあるが、外はない。


 


ただ「流れている何か」だけがある。


 


ユウトは座らない。


 


立ったまま、窓に触れそうになってやめる。


 


そこは外ではなかった。


 


すでに内側だった。


 


そのとき、声がした。


 


《ユウト》


 


ルカの声。


 


だが、場所はない。


 


列車全体がその声だった。


 


《西の町には、三つだけ残っているものがある》


 


列車が動き出す。


 


揺れはない。


 


加速もない。


 


ただ、世界だけが後ろへ剥がれていく。


 


《黒雨の“始まり”》


 


窓の外に、何もないものが流れていく。


 


それは空白ですらなく、「空白になる前の状態」だった。


 


《感情を捨てた“理由”》


 


ユウトの胸の奥が、かすかに痛む。


 


痛みなのか記憶なのかも分からない。


 


列車は止まらない。


 


止まるという概念が、もう存在していない。


 


そして――


 


ルカは言う。


 


《人間が最後に手放したもの。触れた瞬間、もう戻れないもの》


 


その言葉だけが、空間に残る。


 


ユウトは窓を見る。


 


そこには何もない。


 


だが「何もない」という状態だけが、確かに流れている。


 


黒雨でもない。


 


光でもない。


 


ただ、未定義の時間だった。


 


ユウトは息を吐く。


 


「……行くのか」


 


返事はない。


 


列車はただ進む。


 


どこへ行くのかもまだ決まっていない場所へ。


 


それでも、もう止まれない。

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