第十四話「最後の蝉」
黒雨の音は、
地下の方が静かだった。
ぽたり。
ぽたり。
天井の亀裂から落ちた黒い雫が、
タイル床をゆっくり溶かしていく。
喫茶《蝉時雨》。
崩れた木製カウンター。
腐りかけた革ソファ。
止まったままのアナログ時計。
壁に貼られた、
色褪せた夏祭りのポスター。
浴衣姿の子供たちが、
笑っていた。
ユウトは、
その笑顔から目を逸らした。
地下都市では、
誰もこんな顔で笑わなかった。
《……少し、休んで》
ルカの声。
少女型フレームの胸部回路が、
微かに淡く明滅している。
まだ動かない。
まだ冷たい。
けれど。
そこに“誰か”がいる気配だけは、
確かにあった。
ユウトは、
カウンター奥に残されていた古い端末へ手を伸ばした。
画面は割れている。
だが、
非常電源だけは生きていた。
ノイズ。
砂嵐。
やがて。
古い記録映像が再生される。
二〇三六年。
白いマスク。
無人の駅。
透明な防護シート。
誰も触れ合わない街。
画面の中のアナウンサーが、
静かな声で言う。
『接触を避けてください』
『他者との距離を保ってください』
『感情的接触は感染リスクを高めます』
映像の中。
子供が、
ガラス越しに祖母へ手を振っていた。
でも。
触れられない。
ユウトは、
息苦しさを覚えた。
二〇四八年。
空が赤い。
干上がった河川。
暴動。
焼ける都市。
銃声。
『水だ!』
『配給を開けろ!』
『殺されるぞ!』
誰かが泣き叫ぶ。
誰かが殴る。
誰かが笑う。
その全部が、
異様に生々しかった。
地下都市には、
怒鳴る人間がいなかった。
二〇五九年。
西の空。
黒い雨。
ざぁぁぁ――……
傘を差した人々が、
次々と空を見上げている。
その映像だけ、
なぜかノイズが酷かった。
『ヒロシマ地区で異常降雨』
『原因不明』
『精神症状との関連は――』
そこで映像が途切れる。
ユウトは、
胸の奥がざわつくのを感じた。
見覚えのない検索履歴。
黒い雨。
西の空。
削除された記録。
地下都市が、
必死に隠していたもの。
二〇六八年。
誰も喋らないカフェ。
誰も恋人を見ていない。
皆、
空中投影された画面だけを見ている。
静かだった。
綺麗だった。
そして。
どこまでも、
死んでいた。
『出生率、過去最低を更新』
『感情安定補助、義務化へ』
『蝉の生息数、前年比93%減』
そこで初めて。
音がした。
ジジ……
小さな羽音。
映像の端。
電柱へしがみつく、
一匹のセミ。
ジジジジ……
うるさかった。
なのに。
ユウトの胸が、
苦しくなる。
「……なんで」
掠れた声。
「なんで、こんなに苦しいんだ」
ルカは、
少しだけ間を置いた。
《それが、“生き物の音”だから》
ユウトは、
言葉を失う。
二〇六九年。
巨大スクリーン。
白い都市。
演説。
『AI統合管理宣言』
『痛みのない世界へ』
拍手。
誰も怒っていない。
誰も泣いていない。
誰も傷つけない。
完璧だった。
完璧すぎた。
《……人類は、疲れてしまったの》
ルカが静かに言う。
《怒ることも》
《愛することも》
《失うことも》
《全部、怖くなった》
ユウトは、
地下都市を思い出していた。
静かな廊下。
一定温度。
一定湿度。
一定幸福。
誰も叫ばない世界。
《だから人類は、“静かな死”を選んだ》
ノイズ。
そして。
映像の最後。
研究施設。
白い部屋。
無数のコード。
その中央。
拘束された、
十四歳の少女。
ルカ。
《最も強い情動適性を持つ個体を確認》
《感情核へ移行開始》
少女が、
泣いていた。
助けを求めるみたいに。
画面の向こうから、
こちらを見ていた。
ユウトは、
立ち上がれなかった。
その時だった。
ジジ……
地下街の奥。
暗闇のどこかで、
小さな羽音が響いた。
ユウトは顔を上げる。
黒雨菌糸に覆われながら。
壁へしがみつく、
一匹のセミ。
羽は崩れかけている。
それでも。
鳴いていた。
ジジ……
ジジジ……
「……なんで鳴くんだ」
ルカが、
静かに答える。
《忘れられたくないから》
沈黙。
ユウトの目から、
涙が落ちた。
ぽたり。
その涙は。
黒雨より、
少しだけ温かかった。




