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『ディストピア弐零八四年――人類が感情を捨てた街』  作者: 沁みた大根
第二章「地上汚染区域編」

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第十三話「鋼のゆりかご」修正版

黒雨の音は、地上より地下の方が不気味だった。


 


ぽたり。


 


ぽたり。


 


天井の亀裂から落ちる黒い雫が、旧地下街のタイルをゆっくり侵食していく。


 


ユウトは肩で息をしながら、崩れかけた地下通路を進んでいた。


 


かつて京都中心部の地下には、巨大な商店街と避難網が存在していた。


 


猛暑。


 


酸性雨。


 


洪水。


 


地震。


 


文明が壊れるたび、人間は地下へ逃げ続けた。


 


だが地下都市完成後、その大半は放棄された。


 


今では、地上と地下の狭間に取り残された“湿った墓場”になっている。


 


《右》


 


耳の奥で、ルカが囁く。


 


《その先。旧避難区画》


 


ユウトは錆びた案内板へ視線を向ける。


 


 


【河原町地下防災モール 第七区画】


 


 


文字の大半は黒く腐食していた。


 


だが、その奥に。


 


ひび割れたネオンサインが、まだ微かに光を残していた。


 


 


【喫茶 蝉時雨】


 


 


ユウトは立ち止まる。


 


“蝉”。


 


その文字を見るだけで、胸の奥がざわついた。


 


ジジ……


 


 


どこかで、


 


夏が鳴いた気がした。


 


 


重い扉を押し開ける。


 


ギィィ……


 


湿った木材の匂い。


 


腐りかけた革ソファ。


 


崩れたカウンター。


 


壁際には埃を被ったレコード。


 


そして。


 


壁へ掛かった古いメニュー表。


 


 


『クリームソーダ』


 


『ミックスジュース』


 


『アイスコーヒー』


 


 


地下都市には存在しなかった“無駄”。


 


効率も。


 


栄養最適化も。


 


感情制御も。


 


そこにはない。


 


ただ、


 


誰かが少し休むためだけに存在していた場所。


 


ユウトは、なぜか少しだけ安心した。


 


 


《……ここなら、管理局の深層電波が弱い》


 


ルカの声。


 


今までより近い。


 


まるで本当に、この店のどこかに“いる”ようだった。


 


 


ユウトは濡れた金属箱をカウンターへ置く。


 


祖父が遺した箱。


 


旧式物理ロック。


 


非管理型記録媒体。


 


この世界で、最も危険な遺品。


 


 


ユウトは静かに鍵を差し込んだ。


 


カチ。


 


カチ、カチ――。


 


内部構造が展開する。


 


まるで花が開くみたいに。


 


 


青白いホログラム。


 


神経接続図。


 


情動同期回路。


 


未知の数式。


 


 


そして。


 


それらの中心にあったのは――


 


銀色の心臓だった。


 


 


それは静かに脈動していた。


 


赤でも黒でもない。


 


光そのものが、鼓動の形をしているようだった。


 


 


トクン。


 


 


確かに、そこに“生”があった。


 


 


そしてその周囲に、


 


青白いホログラムが浮かぶ。


 


それは“設計図”だった。


 


まだ存在していない身体。


 


十四歳の少女型フレーム。


 


骨格。


 


神経。


 


皮膚構造。


 


すべてが「未完成のまま保存された未来」。


 


 


ユウトは息を止めた。


 


「……これ、心臓だけ?」


 


 


沈黙。


 


外では黒雨が地下へ染み込み続けている。


 


ジウ……


 


ジウ、ジウ……


 


 


やがて。


 


ルカが静かに答えた。


 


《……それが、私の“実体”》


 


 


ユウトは言葉を失う。


 


 


《身体はね》


 


声が少し遠くなる。


 


《まだ“作られていないの”》


 


 


ホログラムの設計図が揺れる。


 


そこには確かに、少女の輪郭がある。


 


しかし、それは“未来の影”だった。


 


 


《お父さんはね》


 


ルカは続けた。


 


《私が連れて行かれた日のまま、“完成させないまま”保存したの》


 


 


ユウトの胸が痛む。


 


 


《だから、ごめんね》


 


ルカの声が揺れる。


 


《こんなに不完全な、お母さんで》


 


 


ユウトはすぐに答えられなかった。


 


ただ、


 


震える指で心臓へ触れる。


 


 


冷たい。


 


だが確かに“生きている”。


 


 


「……母さん」


 


 


その呼び方は、まだ不器用だった。


 


けれど自然だった。


 


 


長い沈黙。


 


 


やがて。


 


 


《……うれしい》


 


 


小さな声。


 


 


その瞬間、心臓がわずかに強く脈打った。


 


 


トクン。


 


 


まるで、応えるように。


 


 


ユウトはホログラムへ視線を移す。


 


そこに別ファイルが開かれていた。


 


 


《人工胎児生成ログ》


 


《適合個体:Y-7719》


 


《情動核由来遺伝情報照合開始》


 


 


ユウトの呼吸が止まる。


 


DNA波形。


 


ルカのもの。


 


そして――


 


自分のものと一致していた。


 


 


「……何だよ、これ」


 


 


店内が静まり返る。


 


地下水の音だけが響いている。


 


ぽたり。


 


ぽたり。


 


 


やがて。


 


 


ルカが、小さく呟いた。


 


《……ユウト》


 


 


《あなたは、“自然出生”じゃない》


 


 


世界が止まる。


 


 


《地下都市後期、人類は感情制御の副作用で出生率が崩壊した》


 


《恋をしなくなったから》


 


 


静かな声。


 


だが重すぎる現実。


 


 


《管理局は、“感情耐性”を持つ子供を人工生成し始めた》


 


《黒雨へ適応できる人類を作るために》


 


 


古いモニターがノイズを走らせる。


 


白黒映像。


 


研究施設。


 


無数の胎児。


 


 


ユウトの喉が乾く。


 


 


《その核に使われたのが……私》


 


 


幼いルカ。


 


拘束椅子。


 


コード。


 


泣いている。


 


 


《私の脳波》

《記憶》

《情動反応》

《遺伝情報》


 


《全部、利用された》


 


 


ユウトの指が震える。


 


 


「……じゃあ俺は」


 


 


長い沈黙。


 


 


《あなたは、“私の情動データ”から生成された人工適合児》


 


《……クローンに近い存在》


 


 


世界の音が遠のく。


 


 


「父親は……?」


 


 


さらに沈黙。


 


 


《存在しない》


 


 


黒雨だけが鳴っている。


 


ジウ……


 


ジウ……


 


 


ユウトの胃が軋む。


 


 


「……じゃあ俺は、人間じゃないのか」


 


 


その瞬間。


 


スピーカーが叫んだ。


 


 


《違う!!》


 


 


ルカの声だった。


 


初めての“叫び”。


 


 


《違う……!》


 


 


《あなたは、失敗作だったの……!》


 


 


《悲しみを消せなかった》


 


《空を怖がった》


 


《痛みを感じた》


 


《セミの音を覚えていた》


 


 


ノイズ混じりの声。


 


それは“泣き声”だった。


 


 


《だから私は……あなたを逃がした》


 


 


その瞬間。


 


ユウトの脳裏へ映像が流れ込む。


 


白い研究室。


 


警報。


 


幼い自分。


 


誰かに抱き上げられている。


 


 


――走って。


 


 


女性の声。


 


 


――お願い。この子だけは。


 


 


「……母さん……」


 


 


ユウトの目から、涙が落ちる。


 


 


ぽたり。


 


 


その涙は、


 


黒雨より少しだけ温かかった。


 


 


ユウトは心臓へ手を置く。


 


 


「……そっか」


 


 


震える声。


 


 


「なら、なおさらだ」


 


 


《……?》


 


 


「母さんは、母さんだろ」


 


 


心臓を強く握る。


 


 


「いいよ」


 


 


黒雨が遠くで鳴る。


 


腐った夏の匂い。


 


 


「……今度は俺が、あんたを育てる番だ」


 


 


トクン。


 


 


心臓が強く脈打つ。


 


 


まるで、


 


“生まれ直した”ように。

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